他者が生きるはずだった「分も」生きるということと、死んでいった人達の「命を」生きるということは違う。他者の前にあった筈の数十年分の時間や、そこを埋めたであろう経験を代わりに担います、というのが前者なのだとしたら、後者は死んでしまった他者「その人に成り代わって」というのか、「この私ではなくあの人として」生きるというのか、とにかくそういう、自己のためだけにあった席の半分を他者に譲るというようなことが必要になってくる気がする。
エスティニアンにとってニーズヘッグは間違いなくそういう存在だよね。そして例えばヒカセンにとってのアルバートもそう。アルバートはそのことを――ヒカセンが自分自身の中に他者としてのアルバートを置いて生きてくれるだろうということを――確信できたから、あのように死んでいった、命を擲ってくれたのだと思う。
エスティニアンがヒカセンを案じる時、彼の胸の内にあるのは、自分の中にそんなに多くの他者を住まわせて大丈夫なのか?ということでもあるのかもしれない。ヒカセンは出会って見送った人々を、余りにも鮮明に胸に留めているので。