FF14の自機設定
眠れないからFF14の自機設定みたいなのを書いておこう。
自機はアウラ・レン。両親は共にアウラだけど、母親はゼラ。
父親は船乗りで、東方がきな臭くなってきた頃にエオルゼア↔︎東方の遠洋航海の船乗りになり、それをきっかけにしてエオルゼアに逃げてきた。母親は故郷のアジムステップに何らかの理由でいられなくなり(何となく結婚の強要や性暴力などの理由をイメージしている)、紅玉海ないしはクガネへ出たところで仕事中の自機父親に会い、そのまま彼を頼る形でエオルゼアへついてきた。家出的な形でエオルゼアへやってきたため、頼れる人がいない、異言語異文化へ馴染めない、といった問題に取り巻かれた結果、何事も夫頼みの人間になってしまった。
自機自身はザナラーンの小さな港町に生まれて、5歳かそこらでリムサ・ロミンサに移住。弟が一人いる。弟はゼラ。
続
テルティウム駅でアルフィノとアリゼーが首輪をつけられて人質になった時、私はヒカセン目線で非常に辛かった。帝国の第Ⅰ軍団の人達は殺してはならない人(というか、彼らの気持ちそれ自体は察するに余りある、そういう相手)な訳だけれど、これでアルフィノとアリゼーが死んでしまったら、ヒカセンは彼らを恨んだり憎んだりせずにはいられない気がした。
オルシュファンの死以来の、ヒカセンが憎しみに駆られかける瞬間なのではないかな……というようなことを思った。
そのこと、誰かにちゃんと話せるのかなあヒカセンは。ヒカセンが心情を吐露できる相手の不在が心配。
エス光だな〜と思ったけどヴリトラと掛け算も良いな、と思う暁月
死者の民主主義ってことを言ったのはオルテガだと思っていたけれど、事実上それはチェスタトンが言ったことだったわ……という……。あとは柳田國男。この勘違い、全部中島岳志のせいだと思うと、中島岳志あのさあ、とちょっと怒りが湧く。
死者と生者の別という観点から戦争を眺めた時、憎み合う二組の生者はどちらもただ「生者」であり、生を連帯している側、共犯している側である、という風に言えてしまう。
ヒュトロダエウスがヒカセン(アゼム)に対して、エメトセルクのところへすぐに行っちゃ駄目だ、だって覚えているって約束したんでしょう、というようなことを言う訳だけれど、生者として対峙した時は憎み合う者同士、敵同士の相手でも、そこで命のやりとりが行われて、片方が死の岸辺へ旅立った瞬間から、敵味方の別が失われ、全く別の区分(つまり生と死の区分)が立ち上がることになる。死者ハーデスは、生者ヒカセンにとって既に「敵」ではない。憎しみは色褪せ、或いは洗われて、自分に命のバトンを手渡した人の一人として懐かしくも物悲しい顔を持つようになる。
ニャンにとってのニーズヘッグも、そのような他者なのだろう、と思う……。
ニャンは死者と共に生きている人だな、と思う。奇妙な言い回しだけど。マージナルな存在なんだよな、彼は。竜と人の境界で生きているというのもそうだし、生者と死者の間でも生きている。
彼にとって、自分が辛くも生きながらえたことの「意味」とは、命の限りその場所に立ち続けることなのかな……と。
生者と生者の殺し合い、憎み合いによる断絶なんて実はまやかしで、真に断絶した二者とは生者と死者との間の断絶であるということ、そこには橋なんて架からないこと、そして全ての死者は、確かに一度生者だったのだということ……。彼はそうしたことに誠実であろうと生きている、のだと思う。
それはエメトセルクに対峙するヒカセンと重なるよね、とも。
無理を承知で相手を理解しようと試みる、駄目でも相手の思いを記憶に留めて生き続ける、というのはとても辛くて苦しい。エスティニアンはニーズヘッグの影となってその苦しみを我がこととして認識して、きっととても苦しかった。それはニーズヘッグの感情そのものが辛くて悲しいものだったことに加え、それが正に「自分自身のもの」でもあったから苦しかったのだろう。
そして彼はその後も、失われた命に向き合う旅を続けてきた。人が殺した竜、竜が殺した人、その死者達の声に耳を傾けてきた。それが彼の贖罪でもあるだろうし、辛くも死を免れた生の誠実な使い方でもある、ということなのだろう。
ヒカセンはきっと暁月を通して、星全体に関わる形でエスティニアンのような経験をしなくてはならない。エスティニアンはそれを直観していて、だからヒカセンを案じているのかな……と思うんだよね。
そのことが本当に……本当に……ニャン優しいなあ、と。アルフィノとヒカセンと自分、三人だけでいる時にそれを言ってくれる彼に、ぐっときた……。
5.5まで来た。ヒカセンに対して、アシエンの行いを理解できない、許せないと思っても対話を試みるのかと問い、ヒカセンが分かり合えなくても覚えていることはできる、と答えると「それは茨の道だぞ」って忠告してくれたニャンに胸が締め付けられたよ……。
ニーズヘッグのことを「絶対に理解できない、理解したくもない」と思っていたに違いない彼が、ニーズヘッグの影となって、邪竜の思いに共鳴せざるを得なくなった、その経験があるから恐らくそういうことを言ったのだろうな……というようなことを思った。
エメトセルクが死に、エリディブスと戦う中で、今までヒカセンは他人の戦争を戦っていたけれど、今度の今度はヒカセン自身の戦争を戦うことになるんだなあ、というような感触を覚えた。で、エスティニアンは竜詩戦争で自分自身の戦争をしたことがある身で、だからヒカセンに対してこういうアドバイスをしたんだろうな……みたいなことを思う。
エメトセルクが現生人への肯定と否定の間を激しく揺れ動くのは、一つにはヒカセンが彼と因縁浅からぬ古代人の魂を有しているからなのだろうけれど、もう一つには、彼がやはり「仲間」を、隣人と思うに足るだけの「他者」を渇望しているからなのだろう、と思う。
彼は仲間が欲しい。「古代人」である他者が欲しい。けれど愛すべき仲間達の命によって贖われた世界は醜く、不完全で、そこにはびこるのは古代人と似ても似つかぬ歪な人間ばかり。
彼はきっとそうした人間と触れ合って、仲間になれやしないかと試みてきた。そしてその度に「やっぱり違う」と失望した。そのことを延々と繰り返してきたのだろう。
彼の思う「命と思えるだけの命」「生きていると言えるだけの生」は失われて久しく、この世のどこにも見出せない。彼は故郷喪失者で、いわばディアスポラを経験している。
アルバートが自分からヒカセンに魂を「統合」したの、色々考えちゃう。
彼は幽体のような状態で百年近く第一世界をさまよっていた。その間ずっと、人々を助けたい、助けようと願いながらそれを叶えられなかった。
彼にとってヒカセンは、久しぶりに関わりを持てる他者だったし、自分が働きかけられる、助けようとすれば助けられるこの時唯一の他者だった。
そして彼はあの時偶然にも、ヒカセンを助けることができた。助けられるだけのものを持っていた。それは彼にとってとても嬉しいことだったと思う。自分の生きる「意味」は、他者の助けであること、自分の生は他者に支えられて、また他者を支えるその関わりの中にあるのだと、彼は最後に確信し、実感したのだと思う。
魂の統合は、アルバートという一人の人間の本当の意味での死であり、旅の終わりなのだけれど、そこでブツっと何もかもが途切れるのではなく、別の形で今一つの旅が続いていく。他者を助けることで彼の旅は終わり、彼という器は空けられた。彼の中身は捨てられることなく、他者の助けとして別の器へ引き継がれた。
それは彼が少しも無駄にならなかったということ、彼の生の全てに意味があり、価値があったということなのではないか。だからやはり彼の生こそが(現生人から)エメトセルクに対する「NO」なのだと思う。
ヲタクの考えごととうめきです。二次創作の話などが出ます。