新しいものを表示

皇族の葬儀に使う金で救える命があります ( ⚭ᴥ⚭ )

「笑っていい」「バカにしていい」の基準をよーく見ていくと、この社会のあれこれがよーく分かるよね。

明日はもうダウンコートが必要かな?
急に寒くなるから消耗が激しい……ヒートテックも出さないと。

【NHK】詩人の谷川俊太郎さん死去「二十億光年の孤独」「生きる」など
www3.nhk.or.jp/news/html/20241

もうここ10年くらいは選挙が「道理で私は生きにくいわけだ……」と実感する機会になってるけど、流石に今回の兵庫県知事選は堪えるな……でも生きるぞ。
「表現することは抵抗(プロテスト」という言葉を教えてくれたのは高校時代の恩師だが、今や「生存することは抵抗」になりつつある。

AIで作られたありもしない動物の画像が本物として出される電脳空間で。ここで他人を死に追いやる振る舞いより「マスゴミによる操作」という耳障りよいストーリーと情報を食っているだけなら良いのだが実際の投票行動に及び、良いことをした気持ちになれてしまうという、あーーーーグロテスクだなああああ

来年はこの成功体験を引っ提げて都議会議員選挙に石丸新党が殴り込んでくるし、参議院選挙もあります。恐ろしいね。

俺も都知事選を連想した。どういう「情報」を「どこに」流して、どのような「物語」を組み立てれば有権者を手玉に取れるか、というような戦略のキモを、完璧に掴まれてしまったかのような……(これすらも「陰謀論」なのだろうか)。

兵庫県知事選を見ていると「死をもっての抗議」が「死人に口なし」となってしまったように見える。かつて建前ではあったとしても時の総理の福田赳夫が「人の命は地球より重い」といった時代に比べて人の命の重みがどんどん軽く扱われている時代ではないか。

コミティアとデザフェスから帰宅。
やっぱりイベントにサークル参加したら「売上は全額寄付」でやりたいな。
そもそも売れんけど、気に入った装丁で自分の好きなように書いた話を本にできた時点で目的は達成した、という感覚なんで「手元に置いてくれてありがとう。お金まで貰っちゃって悪いね」が正直なところ。
それなら寄付するほうが気も楽だし、世の役に立つし。

10年ぶりに同人誌を出そうと調べているけど、調べれば調べるほど「本を作れる人の優位性」みたいなものを感じる。
読み書きの能力はもちろん、一纏まりの話なり絵なりを作れる能力から必要な道具や本の制作費を賄える経済力、印刷会社やイベント参加の規約を理解できる能力と関門だらけなことに気付かされる。
「創作は自由だ」と無邪気に傲慢に信じていた10年前。
それがまやかしに過ぎないと気づいた今。
自由と結びつけられがちな創作活動は、実は強烈な選民思想を内含する。
オタク文化や創作界隈からヘイトスピーチや差別的言動が多々飛び出すのは、ここら辺に理由があるのかも知れない。
そこに何処まで自覚的になれるか、自身の特権性を認められるか、迷いつつ、それでも本は作りたい。

うん。実生活で、多少理屈っぽいことをしゃべっていると、「そんな話はいいから」みたいに笑いに持ってこうとする人っているよね。真面目に人の話を聞くことに耐性がなくて、なんか茶化したり茶化されたりすることがコミュニケーションだと思っている人って実在する。

こっからは偏見かもだけど、私が女性なので、なおさら「難しい話」は求められていないのかもしれない。そういうふうに思うことはある。

自分はバカな冗談を言い合うような仲よしとも、そのまま普通に超面倒な話もするので、「そんな硬い話はいいから」ですべてちゃらけて流す世界は、あまり好きじゃない。

英紙ガーディアンがX(Twitter)を撤退。
億万長者がプラットフォームを支配して政治的影響力を行使することに対するNOをはっきりと示している。そして、現状のXは陰謀論やレイシズムがうずまく有害な空間である、と。
これは他のメディアにも波及する契機になりそう。

RE: https://www.threads.net/@guardianaustralia/post/DCT8FElvBoi

 もしこれがヒズボラがイスラエル国内で行っていたことだったら、爆撃機がすっ飛んで行って女子供も皆殺しされ、スピルバーグが「この日のことは忘れない。俺はこのことを映画にする」とか言い出すのに、その主体がイスラエルだと何のおとがめもない。何がテロであるか欧米が恣意的に決め、テロ認定されると皆殺しにされる世界に俺たちは住んでる。

ヒズボラのポケベル一斉爆発、イスラエル首相が承認=報道官
jp.reuters.com/world/security/

「努力した分、見返りがある」ってのを全否定するつもりはないし、私はそう言うのもとっても大切だと思ってるんだけど、そっちはオプションにして欲しいんだよな。

デフォルト設定として、「誰でも安心して生きられる」ってのをまずちゃんと確保してからなら、努力して報われるのは良いんじゃない?と普通に思いますよ。

あと、実際には今の社会は、「努力したらした分報われる」ってのも完全に崩壊していて、のぶちよみたいなのが国会議員になるし、女はどんなに努力しても、高下駄穿かされた男には絶対に敵わないように設計されてますからね。それをまずちゃんと誰でも努力すれば同じように報われる社会にして欲しいよね。

From:
fedibird.com/@hexebleu2/113470 [参照]

「学歴の高い人たち同士でルールを作って回す」の問題点としては「一定以上の知的レベルの人しか理解できない」が思い浮かぶけれど、私は「一定以上の心身のスタミナがある人しか適応できない」も相当深刻だと思っている。

福祉や支援の話で「当事者は努力したか」がやたら取り沙汰されるのは「条件さえ揃えば人は皆努力する」が前提にあるからだろう。
高学歴の人は努力家だ。
それは否定しない。
けれど、世の中には努力できない人が相当数いる。
努力しても人並みでいるのが精一杯の人も、人並みにすらなれない人も相当数いる。
そして、そう指摘した時に「障害がある人はそうなりがちだね」と返されるくらいに「健常者なら努力できるし努力すれば結果を出せる」という認識は社会に蔓延している。

学歴の高い人たちがルールを作る時、無邪気に「努力した人が報われるように」と設定されると永劫浮かび上がれない人がいる。
浮かび上がれないどころか「努力しない人への当然の報い」とされてしまう。

私が「努力した/してない」を俎上に上げたくない理由はここにある。
努力が基準に語られる時に、溢れ落ちるものをこそ問いたい。

なんか結構ずっと学歴のこと考えてて、今の世の中で「学歴が高い人たち」が作ってきたルールが回ってて、それらに学歴が高い人たちが反論して変えて行こうとしているように私には見えてて、今このルールを回してんのも反論してんのも大卒の私だな、みたいなの。いや私の大学なんて大した大学じゃないし、それ大学?って言われちゃうような大学なんだけど、でもなんていうか、私が構造において何に加担してるかみたいなの考える時に、「学歴」はでかくあると思ってる。

給与増は大歓迎だけど、同時に業務量の削減も本気で取り組んでもらわないともうダメだよ。

部活を筆頭に、卒業アルバムのカメラマンとの折衝、卒業文集作成の印刷会社との交渉、校内の掃除や通学時の交通整理や指導、行政との会議、各種検定の申込手続きと「教員免許が無くてもできる仕事」が多すぎる。

教材研究の時間より、それらの業務時間のほうがずっと多いなんて日もザラ。

加えて大学入試も複雑になってて一人が出願するだけで、教員が作る書類が山のように必要になる。
流石に手書きは減ったけど。
とにかく学校や教員に任されていることが多すぎる。
逆に言えば「親と学校と教員以外誰も子どもの面倒を見ない/見られない」くらい社会も限界なんだろう。

教員の給与増、段階的10%案 財務省案、文科省と溝(共同通信) - goo ニュース news.goo.ne.jp/article/kyodo_n

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。