「学歴の高い人たち同士でルールを作って回す」の問題点としては「一定以上の知的レベルの人しか理解できない」が思い浮かぶけれど、私は「一定以上の心身のスタミナがある人しか適応できない」も相当深刻だと思っている。

福祉や支援の話で「当事者は努力したか」がやたら取り沙汰されるのは「条件さえ揃えば人は皆努力する」が前提にあるからだろう。
高学歴の人は努力家だ。
それは否定しない。
けれど、世の中には努力できない人が相当数いる。
努力しても人並みでいるのが精一杯の人も、人並みにすらなれない人も相当数いる。
そして、そう指摘した時に「障害がある人はそうなりがちだね」と返されるくらいに「健常者なら努力できるし努力すれば結果を出せる」という認識は社会に蔓延している。

学歴の高い人たちがルールを作る時、無邪気に「努力した人が報われるように」と設定されると永劫浮かび上がれない人がいる。
浮かび上がれないどころか「努力しない人への当然の報い」とされてしまう。

私が「努力した/してない」を俎上に上げたくない理由はここにある。
努力が基準に語られる時に、溢れ落ちるものをこそ問いたい。

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「努力した分、見返りがある」ってのを全否定するつもりはないし、私はそう言うのもとっても大切だと思ってるんだけど、そっちはオプションにして欲しいんだよな。

デフォルト設定として、「誰でも安心して生きられる」ってのをまずちゃんと確保してからなら、努力して報われるのは良いんじゃない?と普通に思いますよ。

あと、実際には今の社会は、「努力したらした分報われる」ってのも完全に崩壊していて、のぶちよみたいなのが国会議員になるし、女はどんなに努力しても、高下駄穿かされた男には絶対に敵わないように設計されてますからね。それをまずちゃんと誰でも努力すれば同じように報われる社会にして欲しいよね。

From: @hexebleu2
fedibird.com/@hexebleu2/113470 [参照]

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