あと、これはおそらく多くの方が勘違いしてると思いますが、この件は差別云々とは関係がなくとも問題ありなものだということ。
・協力/監修を受けたのなら少なくとも刊行前には完成品を見せて問題がないか確認をとるべき
→ここは差別云々と関係なくものづくりの場において必要な手続き
これを怠っている時点で作り手側に非があるわけで、かつ、この確認を怠ったがゆえに各種の状況が生じ、複雑なことになっているだけ。
(そして最も大事なことは、複雑な状況になればなるほど「立場の弱い者」が苦しむということ。今回の場合、無自覚な宗教差別が蔓延る社会においてこの件の批判をすることは、前提の時点で勾配が大きすぎる=勝ち目がないということになる)
作中にトランスジェンダーを出したいけど知識がないから当事者に人物造形を手伝ってもらった、けどその最中に当事者から己の中にある無自覚なトランスジェンダーへの差別意識を指摘されて、人物造形の作業が終わったら連絡を断ち、かつ提供された人物の設定を変え、その変更の確認もとらずに本を刊行した、そしてその人物属性はよろしくないと当事者から批判を受けたら、無許可改変などしてないとかトランスジェンダー差別はしてない(し今後も話を聞くつもりはない)とか言い出す、これをどう捉えれば「反差別」になるのか。セクシュアルマイノリティなら話を聞くけど、宗教信仰者なら聞かないってことなら、そこの差はなにがもたらしてるわけ?
もう名前を出すが、李琴峰氏には「宗教信仰者の話など聞きたくない!」という態度が初めからずっとあるように思えるのだけど、となるとなぜ「作中に宗教的要素を盛り込み、かつ奥付に協力者として名を載せたのか」ということへの疑問が生じる。端的に言って矛盾してるんだけど、この矛盾を解決する解は「宗教のことは理解したくないがその要素は作中展開の都合にあわせて使いたい」という欲求に従ったから、になる。そしてpumpkin関連もそうだけど、ものづくりの持つ本質的/根本的な暴力性に無自覚すぎる。
腰というか尻肉に圧力がかかると筋肉がピリつく、という状態。つまり立ってるかうつ伏せ寝してるかが正解。
本屋lighthouseのナカノヒト。おぺんのおともだち。