作中にトランスジェンダーを出したいけど知識がないから当事者に人物造形を手伝ってもらった、けどその最中に当事者から己の中にある無自覚なトランスジェンダーへの差別意識を指摘されて、人物造形の作業が終わったら連絡を断ち、かつ提供された人物の設定を変え、その変更の確認もとらずに本を刊行した、そしてその人物属性はよろしくないと当事者から批判を受けたら、無許可改変などしてないとかトランスジェンダー差別はしてない(し今後も話を聞くつもりはない)とか言い出す、これをどう捉えれば「反差別」になるのか。セクシュアルマイノリティなら話を聞くけど、宗教信仰者なら聞かないってことなら、そこの差はなにがもたらしてるわけ?
極端な話、どれだけ手続き不備を訴えようと、そしてその批判が正当なものであろうと、「だって宗教じゃん」と言いさえすれば「じゃあそっちの言い分は嘘だね」となってしまう可能性がある、ということ。そして現にそうなっている。確認不備、手続きの不備を訴えても、「別に宗教差別とは言えないんじゃない?だから問題ないでしょ」とされてしまう。これを言っている者は宗教のことなどよく知りもしないのに、そして聞いた者も同様によく知りもしないであろうに、なぜかこの「だって宗教じゃん」は絶大な効果を持ってしまう。そして手続き不備の問題点がうやむやになる。
だから「谷川俊太郎から提供された詩を勝手に改変するのか」という場合を考えてもらいたいわけで、そしたらみんな批判するでしょ。じゃあ谷川が宗教信仰者だったら「信用ならない」になるわけ?それともキリスト教ならいいけど神道はダメ?そこに差をつけていい理由はなんなの?統一教会関係者だったとしても「詩の無断改変」はダメでしょう?それとも「統一教会はすべからく悪!」だからなにをしてもいいわけ?すべからく悪!と属性でみなすことは差別じゃないわけ?