星野の記事のよろしくないところは、自分の主張が受け手によって都合よく利用されるのが嫌だ(から政治的な主張を明白におこなうのはやめて文学の世界に戻りたい)というようなことを言っておきながら、「リベラル」「カルト」「正義」のような曖昧な言葉を多用して批評を(無自覚に)おこなっているところだと思う。ゆえにその曖昧さによって「私のことか!」となった者らが反発したり反省したりしているし、そのことによりまた分断(これも曖昧な言葉)が生じている。圧倒的な定義不足。
そしてこの「曖昧さによってさまざまな解釈を可能にする」という手法はまさに文学の手法であって、星野が批評家ではなく文学者であることの証のようなものにもなっているのだけど、だからこそ「自分の主張を受け手の都合で勝手に利用されたくない」というような欲求を抱き文学の世界に戻っていくのは悪手なのではないか、と思っている。
そこだけは大丈夫なのだろうか、とか思うけども、根本的には星野の主張そのものに対して私はさほど興味はなく、その主張が正しいか正しくないかについてはどうでもいいと思っている。反省したい者はすればいいし、反発したい者はすればいい。その結果として、本来の目的であるはずの「差別や虐殺などがなくなる」という目標に近づくのであれば、どちらの立場や手法をとるかは些細なことなのではないか。