差別や虐殺などのど真ん中に放り込まれて身動きが取れなくなっている者らからしたら、本の力だとか文学の力だとか言論の力だとか知性だとか理性だとかといったものはどうでもよく、とにかく我々をここからすくい出せ、ということでしかない。その現実を見据えつつそれらの力を信じ行動するのか、その現実から目を背け(=特権を行使し)ながらそれらには力があると叫ぶのか、そこには大きな違いがある。端的に言って、後者は現実逃避でしかない。しかし出版業界の一員として、我々は常に後者の在り方を選択していると言わざるを得ない。

星野の決意表明的な批評には一理ある(一理もない言論のほうが稀ではあるのだが)。しかしその「一理」を肯定できるのは己が特権的立場あるいは状況にあるからだ、という認識がないままだと、差別や虐殺などのど真ん中に放り込まれている者らを置いてきぼりにするだけになる。そもそも、星野の批評をああだこうだと言える状況にあること自体が、己の命が脅かされていないことの証である。「星野の批評を理解するには彼の作品を読む必要がある」みたいなことを批評家や我々本屋は言いがちだが、そんなのは貴族のお戯れでしかない。

つまり私のこの投稿もお戯れでしかない。我々本屋は、なにかことが起きるといつも「本を読もう」と言ってしまうが(戦争に抗おう、とか)、実際に本屋をやっていて体感するのは、本で救われるのは「それだけの余裕がある」者らであって、本当に救われるべき存在は本屋になど来れない、ということだった。

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星野の記事のよろしくないところは、自分の主張が受け手によって都合よく利用されるのが嫌だ(から政治的な主張を明白におこなうのはやめて文学の世界に戻りたい)というようなことを言っておきながら、「リベラル」「カルト」「正義」のような曖昧な言葉を多用して批評を(無自覚に)おこなっているところだと思う。ゆえにその曖昧さによって「私のことか!」となった者らが反発したり反省したりしているし、そのことによりまた分断(これも曖昧な言葉)が生じている。圧倒的な定義不足。

そしてこの「曖昧さによってさまざまな解釈を可能にする」という手法はまさに文学の手法であって、星野が批評家ではなく文学者であることの証のようなものにもなっているのだけど、だからこそ「自分の主張を受け手の都合で勝手に利用されたくない」というような欲求を抱き文学の世界に戻っていくのは悪手なのではないか、と思っている。

そこだけは大丈夫なのだろうか、とか思うけども、根本的には星野の主張そのものに対して私はさほど興味はなく、その主張が正しいか正しくないかについてはどうでもいいと思っている。反省したい者はすればいいし、反発したい者はすればいい。その結果として、本来の目的であるはずの「差別や虐殺などがなくなる」という目標に近づくのであれば、どちらの立場や手法をとるかは些細なことなのではないか。

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