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ベンヤミンの翻訳不可能性の問題、ブルジョア的言語観の批判は、単なる文学的修辞などではなく、第一次世界大戦という言葉の挫折(「外交の失敗」)、力による解決という破局の歴史に対する批判なのである。

「まだ鉄道馬車で学校に通った世代が、いま放り出されて、雲以外には、そしてその雲の下の――すべてを破壊する濁流や爆発の力の場のただ中にある――ちっぽけでもろい人間の身体以外には、何ひとつ変貌しなかったものとてない風景のなかに立っていた。」(ベンヤミン『物語作者』,ちくま学術文庫版)

・・・地球に異変が起こり、生命の絶滅の危機が訪れるたびに、命をつないだのは、繁栄していた生命ではなく僻地に追いやられていた生命だった・・・生物の歴史を振り返れば、生き延びてきたのは、弱き者たちであった。そして、常に新しい時代を作ってきたのは、時代の敗者であった。・・・敗者たちが逆境を乗り越え、雌伏の時を耐え抜いて、大逆転劇を演じ続けてきた・・・逃げ回りながら、追いやられながら、私たちの祖先は生き延びた。そして、どんなに細くとも命をつないできた。私たちはそんなたくましい敗者たちの子孫なのである。(同pp.209-211)

【人間の脳が作り出した世界】
意外なことに人間の脳は、自分たちが暮らす自然界をしっかりと把握することができない。進化が作りだした生物の世界は、多様性に満ちている。あらゆるものが個性を持ちながら、つながりを持っている複雑な世界である。人間の脳は、この複雑さが区分できないのだ。いや、できないというよりも自然界を生き抜くためには、複雑な世界をまるごと理解するよりも、自分に必要な情報のみを切り出して、単純化する能力を発達させてきたということなのだろう。自然界には境界はない。すべてがつながっている。・・・人間の脳は、複雑にこの世の中を、ありのまま理解することはできない。そのため、区分して単純化していくのである。理解しにくいから、「できるだけ揃えたい」と脳は考える。・・・・
【「ふつう」という幻想】もともとは、生物の世界にふつうなどというものは存在しない。ふつうとふつうでないものとの区分もないのだ。もちろん、私たちは人間だから、多様なものを単純化して、平均化したり、順位をつけたりして理解するしかない。しかし、それは私たち人間の脳のために便宜的に行っているだけで、本当は、もっと多様で豊かな世界が広がっているということを忘れてはいけないだろう。(同pp.202-207)

ネアンデルタール人はホモ・サピエンスに勝る体力と知性をもっていた・・・ホモ・サピエンスの脳は小さいが、コミュニケーションを図るための小脳が発達していたことがわかっている。弱い者は群れを作る。力の弱いホモ・サピエンスは集団を作って暮らしていた。そして、力のないホモ・サピエンスは自らの力を補うように道具を発達させていった・・・ネアンデルタール人も道具を使っていたが、生きる力に優れた彼らは集団を作ることはなかったと考えられている。そのため、暮らしの中で新たな道具が発明されたり、新たな工夫がなされても、他の人々に伝えることはなかった。・・・こうして、集団を作ることによって、ホモ・サピエンスはさまざまな道具や工夫を発達させていった。そして、結果として能力に劣ったホモ・サピエンスがこの地球にのこったのである。(稲垣栄洋『敗者の生命史38億年』PHPエディターズ・グループ2019年,pp.191-192)

因果関係のないところに擬似的な因果関係を作り出すのが知識であり、技術であり、言葉である。人類のこれまでの歴史は、人間による自然の計算可能性と操作可能性を作り出すために費やされてきたといっていいだろう。
その前の先史時代といえば呪術という「技術」の時代だったのだろう。シャーマニズムというのがそのもっとも古い技術の形だったのだろう。もちろん呪術は廃れてしまったわけでなく、宗教という高度に言語化された形で姿を変えて歴史時代にも生き残っている。

最近次々と映画化されて注目される佐藤康志の小説では昭和50年代構造不況下の函館の職業訓練校が描かれる。失業者に職業訓練をする職業訓練校には、自動車整備工の養成科と大工養成の建築科があったという(中澤雄大『狂伝佐藤泰志』中央公論新社)。
なるほど確かに、前者はモータリゼーション、後者は個人住宅投資という外需から内需への拡大策による生産構造問題の打開策だった。高度成長が終わった日本経済は半世紀かけてその転換を行ってきた。現代は再びまたその転換が求められている時代だと言うことだろう。
経済の基本は需要と供給の関係で、その均衡を目指すとされている。ところで需要と供給の関係というものはどちらかが先でどちらかが後といったものなのだろうか。需要(欲望)があれば供給(充足)を作り出さすことも出来るし、供給が可能だから需要することが出来るともいえる。
しかしそれは需要があれば(全部)供給できる、供給があれば(全部)需要される訳では必ずしもないということである。需要と供給の関係には、因果関係があるとは必ずしも言えないということだ。→

コラボへの攻撃は、特殊・特別な人たちによる単なる嫌がらせ、妨害なのではなく、欧州近代初頭の魔女狩りという集団ヒステリー現象に類するものだという分析が出てきてもおかしくはないと思うのだが。
「‥魔女狩りには実に種々の要因があるけれど、基本的には生産力の減退にかかわるものであり、それと関連してその地の政治家官僚の責任転嫁であった‥」(中井久夫『分裂病と人類』UPコレクション2013年新版)
「しばしば魔女は飢餓のあとのたまさか豊作を祝うカーニヴァルで民衆の歓呼の声のうちに焼かれた。ただ『金枝篇』とは異なり王は殺されず、責任は女性に転嫁された。ここにルネサンス宮廷官僚と民衆との無意識の共謀を見る。この民衆は十五世紀を頂点とする農民戦争の挫折を経験している農民、自治権を次第に剥奪されインフレーションと破産の危機に脅かされている商人など、要するに自己の生存権を脅かされ、、かも自力更生の方途を見いだせない民衆であった。」(同)

「私自身は、何か具体的な処方箋を提示できなければその批判は不毛である、という立場に与することはできません。すぐに手近な解決策を求める場合、私たちはその批判が見据えようとしている現実からじつは目をそむけているだけなのではないでしょうか。 」(細見和之『フランクフルト学派』中公新書2014年)

目の前にある物を直接交換するのではなく、言葉を交換しておいて、後で時間差を置いて清算すること、つまり、人類の言語使用の起源的事態について考えようとしたということ。つまり3000年前に始まった「言語、貨幣、時計」の成立ということについてだ。

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「たとえば、生産様式にはないような何か。今、私が「交換様式」と呼ぶのはそういうもの・・・私は、その問題を、経済学において追求することはしなかった。もちろん、『資本論』における・・・「価値形態」という問題に着目していましたが、・・・経済学的ではなく、言語学的な問題でした。つまり、交換を言語学的な次元で考えようとしたといえます。」(柄谷行人「『力と交換様式』をめぐって」『文學界』2022年10月号)

「負い目とか個人的債務とかいう感情は、・・・その起原を存在するかぎりの最も古い原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手、債権者と債務者の間の関係のうちにもっている。・・・値を附ける、価値を量る、等価物を案出し、交換する―これらのことは、人間の最も原初的な思惟を先入主として支配しており、従ってある意味では思惟そのものになっているほどだ。」(ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫2010年改版、pp.102-103)

人間の文明というのは、返済不可能な絶対贈与の領域に、合理的な計算や清算可能な等価交換の領域を拡大していくことだった。

人間は太陽から根源的な贈与を受けている。自然からの贈与は返済することのできない絶対贈与であり、等価交換では解消できない種類の負債である。神からの贈与、キリスト教でいう原罪のことであるが、この贈与もまた返済することの出来ない絶対贈与のことなのである。

「スイス憲法では、「被造物の尊厳」という文言が使われている。これをどう解釈すればよいのか?動植物やその他の自然物にも尊厳はあるのか?」(小倉紀蔵『弱いニーチェ』筑摩選書2020年、p.275)
「人間の尊厳」、「国家の尊厳」・・・「尊厳」という概念を使うことは、いかなる結果をもたらすのか。

「人の発する声は、是非の対立という意味の次元で用いられたり、「意」を伝達したりするだけではない。それは、世界にさんざめく音もしくはノイズと同様に、いわば原-話し言葉として、意味作用から無関係に響き渡るものである。」(中島隆博『荘子の哲学』講談社学術文庫2022年、p.142)

人間は、牛には草を食わせて豚には残飯を食べさせていた(ニッチを分け合っていた)から、これらの動物と共存できたのだろう。生産性という貨幣の原理だけでは再生産サイクルは必ずどこかで破綻する。ある意味現代人は、肝腎で単純な理屈を忘れているということだろう。

「・・・耕地は「母なる大地」ではあろうが、農耕民はこの「母」を傷つけて作物を栽培し、また穀物神を殺害して作物を奪い取らねばならぬ。地母神、穀物神は両義的存在であり、その怒りはなんとしてでもなだめねばならず、浄めの儀式が必要となる。浄化は強迫症の代表である。これには否認あるいは取消しという機制が動員されている。」(中井久夫『新版 分裂病と人類』UPコレクション2013年、pp.20-21)

「可塑性とは、世界を物理的に破壊するような暴力ではなく、脳が自分自身の脳を破壊するような暴力を受け容れて、それを積極性、能動性に転化できるかどうかにかかかっているのだと思います。その暴力を受け入れ、自らの意志へ組み込むことができるかどうか、新しいシステムとして組成、蘇生できるかどうかが可塑性ということですよね。自分の思い込み、既得の概念を破壊し、修正することは反省や内省からもたらされるとされていますが、けれど反省や内省では自分は破壊されない。力はシステムの外から働きかけるから有効だったわけで。」(岡﨑乾二郎「「感覚のエデン」を求めて」『文藝界』2022年10月号)

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日本文明フォーラムと乃木神社

これは、教授職のコストを三菱グループが寄付している、ということ。

何のことはない、近代日本の植民地責任・侵略行為に深く関与した三菱グループが雇って「従軍慰安婦」否定論を拡散させている構図。

この「日本文明フォーラム」、2022年には「新しい歴史教科書の会」の創立メンバーの「坂本多加雄」記念シンポジウムを、刈部直基調講演、河野有里司会で開催している。

他に参加者は北岡伸一など。
この日本文明フォーラム、極右から右派、例えばサントリー学芸賞グループを広く包摂している。ラムズイヤーもサントリー学芸賞受賞者。

これは、日本の「学界」の多くがグラムシー的に言えば右派に「ヘゲモニー」を掌握されている、ということ。

実際、サントリー財団は1980年代の山崎正和の時代から「粘り強く」塹壕戦を展開して来た。(しかし、佐伯啓思は当然として、斎藤幸平さん、何故メンバーに入っている?)

「日本文明フォーラム」とサントリー学芸賞との関係に見られるように、日本の学界の退廃と倒錯は深刻。(ま、「まともな研究」も時々も受賞はしているけれども)

特に悲惨なのは刈部直、河野有由に代表される日本政治思想史。

特に刈部直はかつては丸山眞男が教えていた講座。

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その上で――

「自然を理解するにはこの思想を転換し、人間は自然の一部で、自然はその「内」から直観的に理解すべきものという発想を広げねばならない(伊東俊太郎『近代科学の源流』)。そこで注目されるのが日本の伝統的思想・文化には、自然との深い関係性の認識が内在することだ」。

――とつなぐのである。「日本の伝統的思想・文化には、自然との深い関係性の認識が内在する」も、ここで挙げられている伊東俊太郎―梅原猛的な文献群では1970年代から飽きるほど繰り返されてきたことであり、いわゆる「日本文化」に即して斎藤正二や鈴木貞美らの論者が丁寧に批判を加えてきたところである。
例えば斎藤正二は大著『日本的自然観の研究』(八坂書房、1978年)巻頭で、公害による深刻な自然破壊を糾弾し「かなり昔から言い古るされてきた「日本的自然観」なる術語も、まさしく“支配の象徴体系”にほかならなかった」と喝破している。
それに加えて、そもそも「自然との深い関係性の認識が内在する」のは日本だけなのか、ほかにも学ぶべき地域的文化はあるんじゃねえの? なんでよその地域は出てこないのかな?

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