「乳幼児に十分な欲求不満への耐性が備わっている場合には,この乳幼児は自らの置かれた苦痛に満ちた状況について現実的に考えることができる。その状況を耐えやすくするような行動を選択しながら,考えることの装置はさらに発達していく。」(堀有伸 精神科医(精神病理学))
コフートの自己心理学とビオンの「考えることの理論」 https://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/kohut-bion_b_4680016.html?utm_campaign=share_twitter&ncid=engmodushpmg00000004
「精神科医や臨床心理士なども、特に認知行動療法を志向する人はうつ病の患者さんと同じく‥「正しい生き方」「正しい治療」を求める人が結構おり、それがゆえに‥「認知のゆがみ」「偏り」を「修正」して、「正しい」道に患者さんを導こうとする傾向がある‥」
「2022年に目に見えるかたちで現われた、こうして人々が暴力に巻き込まれていく趨勢を顧みると、無力感に襲われます。世界が闇に覆われているようにも見えます。しかし、生きるとは、それでも少しずつ歩み続けることでしかありえません。
Chronicle 2022 https://nobuyukikakigi.wordpress.com/2022/12/30/chronicle-2022/
@Nobuyuki_Kakigi
より
nobuyukikakigi.wordpress.com
Chronicle 2022
それはいったん立ち止まって、闇を見つめるところから始められる必要があるのではないでしょうか。それによってのみ、自分から力を奪いつつある暴力を見通すことに結びつくはずです。そして、このことは暴力に晒された他者のことを思う余地を、自分のなかに開くはずです。」
想像力だけがこの抑うつを切り拓いてくれる。それは別様の生、私ではない他者の生、そうではなくこうでもあり得たかも知れない、別の可能性の生への見通しを拓いてくれる力だ。時として妄想として働いてしまうような空想力の本当の力は、そんな働きにあるのではないか。
「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」(ゴータ綱領批判)受け取ること、つまりは<交換>を越えて、<贈与>の原理が働くことが必要なのである。
ところでこの<贈与>の原理は、一般に理解されるように一定の生産力の余力が生まれたときに、という保留条件がつくものなのだろうか。
マルクスの考えもあまりはっきりしていないように見えるが、
「私たちの生そのものが贈与に支えられて可能となっている以上―自然それ自体からの無償の贈与、先行する世代からの無数の贈与、ともに生きている他者たちからの不断の贈与を受けとらずに紡がれてゆく生など、およそありうるでしょか―、贈与の事実そのものについては、その存在を疑う余地がありません。
贈与の原理はたほうまたその困難のゆえに―贈与が純粋な贈与であるかぎり、その存在すら気づかれてはならないのかもしれません―、現在の思考の課題ともなっているところです。」(同p.259)
現実の生はそのように<贈与>なしには成立しないことだけははっきりしている。我々が現在を生きているということはそういうことであり、それがなくなったときには、太陽という根源の贈与者がなくなったときあらゆる生命が存在し得ないように、我々も生きていられないというだけのことだ。
初期マルクスの『経哲草稿』には美しい言葉がちりばめられている。あまりにも美しすぎてマルクスを誤解してしまう言葉でもある。
「問題は、・・ほかでもない「交換」ということばにあります。『草稿』に代表される立場が、やがてマルクス本人によって否定される必要があったのは、この交換という発想自体に、乗り越えられるべき限界があったからではないでしょうか。」(熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』岩波新書2018年,p.249)
マルクスにとっての躓きの石は等価交換という考え方それ自体にあった。各人が能力に応じて働き、働きに応じて受け取るならば、いわば愛をただ愛とだけ等価交換する社会は存続しうるだろうか。少なくとも子供は愛を受ける当然の権利者ではなく、障害者もまた特別な慈悲にすがるしかないかのようだ。
ではいったい何が等価交換の代わりに愛の原理になるのだろう。
「もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫1964年,p.187)
マルクスのこの表現は、「とりわけある種のひとびとに好まれ、「君は愛をただ愛とだけ」交換できる(so kannst du Liebe nur gegen Liebe austauschen)という言いまわしとならんで、くりかえし言及」されてきた(熊野純彦)。
なるほどロマン主義的で、近代的な自我が好みそうな思考と言うのだろうか、あるいはちょっと見方をかえてみれば「どんなに一生懸命やったって、結果を出さなければ意味がない、結果がすべて」と言い切る社畜の言葉のようにもとれる。
マルクスもつまずく主体による能動性の罠こそは、古来から繰り返されてきた人間の能動的な能力への過信とその限界についての反省、傲慢さから謙虚さへの揺り戻しといった人間の思考方法が持つ一局面なのである。
「W'が商品資本として機能するために、W'はGに転化する必要がありますが、そのさい当の商品が「消費へと[資本の運動から]最終的に脱落すること」は、「時間的にも空間的にも、まったく分離されている」ことがありえます。
空間的な距たりも、時間的に踏みこえられる必要がありますから、この「時間という差異[Zeitdifferenz]」がW'―Gの過程を攪乱します。――循環が正常におわれるさいに「W’はその価値どおりに、しかものこらず売れなければならない」。
資本は、あまり長く商品資本のままでありつづけるなら使用価値をうしない、かくてまた商品でもなくなってしまいます。」 (熊野純彦『マルクス 資本論の哲学』岩波新書2018年)
人間の生の営みというのは「時間という差異」をつくりだす運動のことだ。それは資本の運動にとって攪乱的でもあり得る。
「岩井〔克人〕によれば、‥マルクスは「資本論」のなかで交換価値を論じる過程で、自分が提示した労働価値説を消滅させてしまうというのです。」(永田希『書物と貨幣の五千年史』集英社新書2021年、pp.166-167)
マルクスの思考は、決して交換のレベルに止まっていたわけではない。
引用ツイート
山内志朗
@yamauchishiro
·
2021年11月7日
マルクス主義は形而上学としては素晴らしいと思うのだが、経済学としては素人から見てもいいの?と思う。素人の浅はかさだったら、それはそれでありがたいのだが。マルクス主義が経済学として、金融理論として成り立つんだったらそれは最高に至福だと思います。いや、思いたい。
この話は結構面倒な話で「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」から「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というゴータ綱領批判以降のマルクスの思想展開の問題系と密接に結びついている話だ。与那覇の思考は初期マルクスのパラノイア段階の思考と言うことができる。
引用ツイート
gom_nori
@gomnori1
·
2021年11月17日
与那覇は同一労働同一賃金についてよく語っていた。自分のようなエリートが今のような地位に遇されていることによほど耐えられなかったのだろう。彼の発言に感じられるある種の尊大さはそんな事情に由来する。それにしても彼が批判者に対し「警鐘」を打ち鳴らしている図はとても○○とは思えない
「マルクスの思想」とか「マルクス主義」とか言い切ってしまうのも一種の藁人形論法なのだろうなあ。『資本論』はいまだに編纂され続けているし、『ゴータ綱領批判』なんて初期の疎外論とはかけ離れた思考なのに‥‥そういえば丸山眞男なんかも遺稿の段階では新たな思考展開をしているらしいし‥‥
引用ツイート
Shin Hori
@ShinHori1
·
4月21日
完全なフリーランスで時間管理されず成果物を売るだけの立場だったら、賃金労働者ではなく自営業者なので、自分の労働の成果物に見合った対価を得てるから、マルクス主義的に見て搾取はないことになります。
"2000万のサラリーマン"だったらご指摘の通り。 twitter.com/akihiro_koyama…
「〔経済〕成長を取り戻す」という妄想
「マルクスが言うのは‥‥労働者は「商品の買い手」つまり消費者としての役割を期待されているが、彼が賃金として受け取るのは、自らが生産した「付加価値」の一部だけであり、生産された商品の総額に比べればきわめて限定された購買力しかもっていない。
彼は「消費欲望」はもっているのだが、自分の労働力の価格(賃金)は、欲望の対象を買いそろえるには十分ではない。したがって、資本主義的生産様式が支配的になり、人口の大部分が労働者となった社会では、生産力(供給能力)と購買力(有効需要)との落差が「過剰生産」という結果を生む、ということである。
そのような「資本主義社会」で拡大再生産が継続的に行われるのだとしたら「たえず増大する需要は何所から生ずるか?」それがルクセンブルクの疑問だった。しかし『資本論』はそれに答えていない。」(植村邦彦『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性』平凡社2016年、p.23)
死ぬ間際のただの年金じじいだよ(Asyl)