7月終わりから8月にかけて、通勤電車のなかでNetflix「地面師たち」と「サンクチュアリ」を観た。どちらもピエール瀧の怪演が気になるところでしたが、あまり人間味を出すのが得意ではないような気も。役柄の問題かもしれませんが。
私はテレビドラマを全然見ません。だから比較のしようがないのですが、少なくとも「サンクチュアリ」のような角界の裏側を批評的にドラマ化するようなことは、テレビでは難しいんだろうなと思います。「地面師たち」みたいな話も建設・住宅販売からたくさん広告料をもらっているテレビ向きではない気はする。
大きな創作のエネルギーを持つ人たちがNetflixに場所を求めてきているのかなと想像しました。
どちらも作品も暴力がテーマですし、静的なシーンもなくはないのですが、シティハンターのとき然り統制が行き届いている印象です。つまりテレビ的な見えない慣習をクリアできないけれど、今風のコンプライアンスはクリアする、ということで全体的な価値観のアップデートはテレビより進んでいる。それでいてエンタメとしてはそれなりにうまくいっている。
「昔のテレビは良かった」という声に迎合しなくても、十分に面白いものは作れるんでは?と思うのでした。
お盆休みに娘とChants of Sennaar(Switch版)をプレイしました。ここ数年でぶっちぎりの面白さでした。バベルの塔らしき場所で、四つの異なる言語を話す種族の間に立って、それぞれの言語を解読しながら冒険していくゲームです。ヒッタイトっぽい文字やアラビア語っぽい文字、舞台は中東を模しているようでした。
ジェスチャーや指示対象から意味を読み取って、語を特定していくのが基本ですが、時折ロゼッタストーンのようなものが出てくるのも胸熱。記号の共通性を元に品詞を推測することも出来ます。さらに各言語、語順や修飾語が前置か後置も違うので言語学者は相当楽しく読解できると思います。
言語が相互に通じないから生じる文化的摩擦を、主人公がつないでいく様はスリリングでしたが、それ以上にイスラエルを巡る人類の困難を思わずにはいられませんでした。
最上階に住む民は他者との交流を奪われ、AIに統治されて仮想空間でゲームをしています。AIを倒してコミュニケーションを取り戻し、わかり合えない人たちを繋いでいく。相手を悪魔だと偏見のまなざしで見ていたのに、言葉が通じれば愛する隣人だと分かる。言語学者必須プレイのゲームじゃないですかね、これ。
ネタバレを含む考察サイトを。
http://blog.livedoor.jp/motovegalta/archives/35959539.html
コロナ後のお祭りだということで町はずいぶん気合いが入っている模様だが、商店街もずいぶん閑散としていて、アーケード街にはマンションもちらほら。昔ながらのお店の跡地をデベロッパーが買い上げたようです。人いきれの痕跡を至る所に感じる町でした。 [添付: 6 枚の画像]
墨田区から江東区を所用があってぶらり。ついでながら「のらくろ館」に立ち寄って、田河水泡のことなどを学ぶ。写真には加藤芳郎も写っていて、お笑いマンガ道場を思い出すなど。深川あたりなので、あさり丼を食す。水路などいかにも深川という感じがする。 [添付: 6 枚の画像]
こういうプロレスは大好き。当事者同士でないとできない市井の活き活きとしたディスりあいからの和解ですね。なんだ、美味しんぼ的な調和とでもいいましょうか。(美味しんぼは好きではないが)
「大久保にある韓国人、中国人お断りのバルに中国人と行った話し」https://note.com/vast_clover941/n/na62526c0827a
他のエッセイを見るとプロレスでもギリギリな感じのものもあるので、マストドンみたいな小さな世界だったら変な炎上せず、「あの人変わってるけど面白いよね」的な立ち位置がキープされると思うけど。こういうのは場末の飲み屋で聞かれるから面白いので、テレビで放映されたら問題になるというタイプの話芸です。
「寿司の起源は韓国」というネットミームを逆手にとって芸にする、というタイプのジョークでいうと、その昔遠藤浩樹『EDEN』に出てきたやつで、アフリカ系の登場人物が「それを言うならアフリカは人類の起源だぞコラ」とマウントをかけるエピソードを思い出します。
7月29日(月)は関東甲信越から西日本にかけて記録的な暑さになるようですが、この命に危険がおよぶ暑さは、気候変動によって5倍以上起こりやすくなっているとのこと。つまり、背景で進行している気候変動による底上げがなければ、ここまでの暑さにはならない可能性が高いということです。 #気候変動
昨晩、「明日は暑さに注意」というニュースを見て、何だか可笑しくなった。これ以上どう注意するというのか。20年後くらいにこの時期を振り返って、あの頃はこれでもまだマシだったと思うのかな。日増しに暑くなる日々を、毎日注意して生きていたんだよ、とか。
ベランダに黒いゴムのスリッパがあって、夏は熱くなっちゃって履けないことが多いんだけど、この季節はつま先でそっと触ってみてから履くことにしている。今年はその「ちょん」でなんと溶けた樹脂が足の裏にくっついて、やけどする羽目になった。樹脂が溶けるんですよ!今はそのスリッパは日陰に置いてある。
今朝は玄関前の掃除をしたあと、打ち水をしてみた。焼け石に水とはこのことだね。奪えた気化熱なんて暖める勢いには多勢に無勢。
島津亜矢すごいすごいと家庭内で言ってたら、家人からリンクが届いた。アレサ・フランクリンの曲をやってるんだと。
https://www.youtube.com/watch?si=EHabIpJQGTIAm15c&v=2dp6afkUHuo&feature=youtu.be
歌のうまさは本家越えでは?などといい加減な所感を持ってたら、あれ?これ後ろにいんの大阪モノレールでは?やっぱりそうでした。好物の上に好物が乗ったやつでした。
先日、文学研究者たちの研究会に参加させていただいて、中古文学の面白いところをたくさん教わったんだけど、専門違いなので聞くに聞けなかったのが、王朝文学でありがちな文が延々と続いていつまでも終わりが来ない現象のこと、あれを私的な文だって、だらだらいつまでも続くのを文体としては肯定的に捉え難い、としてるんですよね。
ここまで一文。こういうのを日本語学では節連鎖とか、連節構文などといって話し言葉の特徴だと言って、どこまでも続けていけますよね、話し言葉では。こっちの方がむしろ自然で、文の終わりが比較的すぐに何度もやってくる書き言葉の方が人工的、制度的ってことになる。
例えば源氏物語のような中古和文でも節連鎖は至る所に現れていて、それが現代文に慣れた私たちには読みづらい。ある知り合いの京都の研究者曰く、あれをな、関西のおばちゃんの語りのニュアンスで読むとな、すっと自分らの言葉になって胸に落ちて、などと言う。なるほどなと思った。
だとダラダラ文こそが、日常の、肩肘張らない、身体の伴った、お茶飲みの、おしゃべりってことになる。そう捉えた方が当該作品をもっと建設的に捉えられるのではと思ったのでした。
主述はめちゃくちゃなところあるけど、この書き方だと無限に書けるな
日本語学の研究者です。漢字音史、漢語アクセント史を文献ベースで狭くやってます。自己紹介的な論文に、「アニメ『ドラゴンボール』における「気」のアクセント─漢語アクセント形成史の断線から─」(日本語学2022年6月号)あり。データベース作ったり、自転車に乗ったり、珈琲を飲んだり、ジャム作ったりしています。https://researchmap.jp/read0135868