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前の大学の年配の同僚が、「私は残りの人生を考えたら、もう一食たりとも無駄にしたくない」とおっしゃって、小さな手帳に食べたいもの、行きたいお店のリストを作っていらした。美味しいお店を探したいときはその同僚にお勧めを聞いたものだった。

ともあれ、そんな同僚も時々なか卯とかでご飯を食べていて、えっそれは人生の一食になるんですか、とか思わされたりもするんだけどまあそれはいいとして。

その同僚を見習って、美味しいものをきちんと食べようというきちんとした日々のなか、日高屋の中華丼を常食するわけですが、お気に入りのお弁当屋さんもあるんですよ。いつもまあ美味しい(この「まあ」は程度が大きいことを示す「まあ」)。

のですが、始めて今回外れを引いた!昨晩の残り物かな?というハムカツみたいな揚げ物に、ギリシャ風とは言っているハーブ風味のチーズクリームがどっぷりかかっていて、じゃあチャレンジ辞めときなよって話なんですが、まあ(この「まあ」はあきれたときの「まあ」)失敗して、人生における大事な一食を失った気分。

もーしわけない、食べきれなくて最後の3口くらいゴミ箱に行きました。

外れを引くというのも無駄にはしたくなくて、Mastodonの記事一本にしたからね!これでチャラにするわ。

珈琲をがぶ飲みしながら

埼玉の北の果て。素晴らしい場所でした。

今日お会いした仏像さん。100体にお会いした中で、一番グッときたかたです。

さて明日は学生を連れて埼玉県北部に方言調査に。来週の研究フォーラムの準備はまだ完成にはほど遠いが、まずは明日のことを考えよう。寝ます。

矢野顕子のピアノ語りに「さようなら」という曲がある。谷川俊太郎の詩を曲にしたものです。本物の映像はなかったので、カバーのかたのを。

youtube.com/watch?v=BwffY62R_m

これもあたたかく、素晴らしい声と思います。

よろしければ本物も。

不1致という表記を見た。夏目漱石『34郎』まであと少しですね。

いくつかの大学で学生達を身近に見てきた感じで言うと、単純に高圧的な物の言い方はしないように訓練されている。でもそれは必ずしも共感して一緒にやっていこうという精神に基づくわけじゃなくて、ある種の人に嫌われないマナーとしてやっているところがある。

それは大人もまったく同じことで、表層的なふるまいに関わるマナーが変わったんだろうなと思います。

世界をまたいでパワハラについて講演をしていらっしゃるかたの記事に、日本でだけ出てくる不思議な質問「どこからがパワハラですか」という質問があるんだそうですけど、示唆的だと思います。かつて所属した大学でも「どこからがセクハラですか」という質問を耳にしたことがあります。

問題を起こした人は責任を問われて当然、という自己責任論と大変相性のいい捉え方もあります。なぜ問題を起こさざるを得なかったのか、一緒に考えて問題を起こさないようにしていくというような発想にはなりにくい。

つまり表層的には高圧的な物言いはよくないと思っていても、そういう物言いをされる人にはそうされる理由があるという感触があるんだろうなと思います。そういう心の機序みたいなものがあるうちは、パワハラは都合に応じてなかったことにされるのが普通じゃないかしらん。

一夜明けていろいろ考えさせられています。

天気の良い一日。データ分析もそれなりに進み、午後は娘の自転車を見てもらいに。雨ざらしで5年、まあよくまだ動くこと。街のスナップ。

植栽がこんもりしてちょっとした生態系が生まれている感じ。カマキリは4年くらい連続で見ています。

長野で撮影した写真だけど、たぶんアンドロメダ星雲だと思うんだけどなあ。へったくそなんですけど。

今年もヤマボウシは大量に実を付けている。ジャムをつくる気力がなく、ぼたぼたと落ちていくのをほうきで掃き取る日々…。ひとつだけお皿に載せてみた。

秋バラは花弁一つ一つがしっかりしている。香りも強い。

お世話になっていた下井草の鍼灸院が長いこと電話繋がらないなと思っていたら、訃報のはがきが。9月に亡くなっていたとのこと。ご遺族の名前を存じ上げないので、誰が亡くなったのかさっぱり分からなかったが、なるほど三宝閣の玉田さんだった。

大学院生時代に生まれて初めてお世話になった鍼灸が三宝閣だった。その頃わたしは平安後期の国書漢文資料『医心方』の漢語声点の研究をしていて、東洋医学書をかじったりしていた。折しも奥さんが鍼灸師になるために専門学校に通い始めていて、東洋医学を頭と体で味わっていたのだった。

下井草を離れて25年、関東での仕事を再開したおりにふと立ち寄ってみた。昔と変わらず、3000円ぽっきりで患者さんがひっきりなしに訪れていた。あれから私もいろんな鍼灸院を体験したが、原点に戻ってみてこの人は名医だったんだなと気づいた。鍼灸院はボロボロで薄利多売の様子は近時珍しい。カーテン一枚の向こうから生活苦を訴える女性の相談事をカラカラと笑いながら励まし、ちゃっちゃっと仕事を終えて「また来なよ」と送り出す感じは、他の鍼灸院ではあまり見られない光景だった。

Google Mapsで確認すると「閉業」とあった。もう下井草で下車することはないだろうなと思う。

珍しく今日は池袋から帰宅。ジュンク堂でこれも買う。

来た!体系的に勉強できるのがありがたい。やはりきちんと学ぶときにネットではなかなか。

今更ですが、連休中に訪れた長野のお寺、光善寺。いい光でした。

平安文化は女性的? 「突っ込みどころ」のある展示と向き合う歴博:朝日新聞デジタル
asahi.com/articles/ASSC720X6SC

悪くない記事なんですが、最後の記者紹介で「大学でペルシャ語というマイナーな言語を学んだことでマイノリティーの視点に関心を持つ」という記述でひっかかる。日本の学習者は少ないかもだけど、母語話者でいえば大言語ですよ…。マイノリティーの視点を持つという、センシティブな言い方の枕とするにはちょっといろいろ心配です。

週末、妹夫婦が住む長野県宮田村というところへ。星空がとても美しかった。

買い直したマスターキートンを少しずつ読んでいる。冷戦が終わりつつある時代、湾岸戦争があった時代、いまだ太平洋戦争の記憶が残っていた時代、しかしバブル直後でまだジャパン・アズ・ナンバーワンの匂いが残っていた時代。当時の社会情勢をリアルに書き込んだはずの作品は、いまや歴史の教科書になってしまったかのようです。

高校生の時に感じた重厚さと面白さは現役の漫画としてまだまだ通用するレベルで、重厚さだけでなくストーリーテリングの妙も読み物としての価値を高めている。この時代の作品がこういう作りを好んでいたのか、ブラックジャックにも通じるような構成が多い。つまり物語を最後まで書き終わらずに余韻を読ませる作り。

人情話も多い。泣かせるポイントは、いずれも許しと再生の話であるように思われる。喪失の話もないではないが、ある種のペーソスがいつもあって読後に色味が渋く残る陰影が漂う。あのイケイケの時代に衰退と回復の話がかけたのは、脚本家が欧州の没落を見ていたからか、あるいは考古学をモチーフとした数多くの話の中に歴史の隆盛を見ていたからか。

仕事の合間にちょっとずつ読んでます。

きっとアルバイト先ではいい塾の先生なんだろうなと思わせるような学生が、大学の演習発表などで「うーん、それはちょっと違う」と思わせる発表をすることがある。思えば自分が学生の時にもそういう発表を見た。文脈を無視したしゃべり単体で見れば、非常に流暢に堂々と話しているのだけど、なにか場にそぐわない印象が残るタイプのスタイルです。

このスタイルの発表は、本人が腕に覚えがあるように感じている気配もあるので、評価が難しい。だいたい他の学生も圧倒されて「すごかった」くらいは言うのだけど、ちょっと引いていることが多い。

そのそぐわなさはなんだろうと思いますに、「学校の先生が生徒に教える」という談話スタイルになっているからでしょう。目的が「分かっていない人に分かるように教える」というスタイルなので、理解を確認するような話法が、声も含めて随所に入る。

大学の演習発表は、学会の研究報告なども含めて、「聴衆から教えてもらう」ことを目的にするのが本質なので、方向が真逆なのですね。やや今風に言えば結果をシェアし、コメントをもらって、場に差し出した話題に関する知見を豊かにすることが目的であるから、「教える=知識を授与する」というスタンスになるとすごく変な感じになる。

学生の自負心を壊さないように指導するのはなかなか骨です。

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