いくつかの大学で学生達を身近に見てきた感じで言うと、単純に高圧的な物の言い方はしないように訓練されている。でもそれは必ずしも共感して一緒にやっていこうという精神に基づくわけじゃなくて、ある種の人に嫌われないマナーとしてやっているところがある。
それは大人もまったく同じことで、表層的なふるまいに関わるマナーが変わったんだろうなと思います。
世界をまたいでパワハラについて講演をしていらっしゃるかたの記事に、日本でだけ出てくる不思議な質問「どこからがパワハラですか」という質問があるんだそうですけど、示唆的だと思います。かつて所属した大学でも「どこからがセクハラですか」という質問を耳にしたことがあります。
問題を起こした人は責任を問われて当然、という自己責任論と大変相性のいい捉え方もあります。なぜ問題を起こさざるを得なかったのか、一緒に考えて問題を起こさないようにしていくというような発想にはなりにくい。
つまり表層的には高圧的な物言いはよくないと思っていても、そういう物言いをされる人にはそうされる理由があるという感触があるんだろうなと思います。そういう心の機序みたいなものがあるうちは、パワハラは都合に応じてなかったことにされるのが普通じゃないかしらん。
一夜明けていろいろ考えさせられています。