文脈をまとわせる
ある話題が出た時に過剰な文脈をまとわせてしまうのって、それはそれで読解力の不足というか未熟を意味するのでは……などと思った。
そして過剰な読み込み(?)をする側は、その話題を出した人のことを意識が低い("高い"の逆です😅)人のように扱っていたりしますよね……。
「そこに書かれていたことだけをまず読み取る」で一旦話を終わらせて、そこから先の話は相手とのコミュケーションの流れの中で進ませるか止めておくか決めるのが良いのでは……と思います。
一方的に解釈をぶつけるのはそれはそれで暴力的だよな……などと思った次第。
いわゆる"書かれていないことをそこから読み取る"というやり方に相当するのかもしれません……😰
出世のために
極端な言い方をすると、「出世したい人(≒他人から評価されることをしようとする人?)」にとってはその「評価される事柄」自体の善悪などどうでも良いのではないだろうか?
もちろんひとによるし、どの程度まで評価される事柄を達成したり没入するかいう度合い自体も色々なのだろう。
ただ評価される事柄が何であるかに応じていわばカメレオン的に自分の価値や信条を付け替える人も恐らくいるのではと思った。
その際、ホロコーストの善悪については恐らく遂行者は考えないようにしていたりはしないか?
そしてそれが<良いか/悪いか>となると当人の出世欲などを満たす限りにおいて*良い*(!)となりうるのではないだろうか?
<仕事を遂行すれば認められる>式の思考パターンは恐らく普遍的にありうるのではと思うのと同時に、ホロコーストを支える価値観を提唱しその実行を評価した上司(?)の責任は割と重いのではという気もした。
そしてまた、そのような評価形式を通じて自らの価値観を確認しようとした(?)実行部隊たる部下の皆さんにも何か病的(?)なものというか不安定さ(?)があったのではなかったかなどと思った。
頓珍漢なコメントかもしれないが、それへのコミット以外によって自分の人生の価値を高めようみたいな意識はなかったのだろうか? [参照]
"解放"直後の畑
何故このエピソードが頭に残っていたのだろう?
多分このエピソードが、夜と霧は解放されてハッピーエンド(?)という話ではないのだよということを端的に教えてくれた(と当時は思った)からではないかと思う。
寧ろ……戦場は続くというか、収容所という存在を生んだ背景にある思想的な何かは解放後の世界にも*依然として*続いているという風に思ってハッとなったのではないかなと思う。
著者がどういうつもりで(何のために)そのような内容を記しておこうと思ったのか※はその真意を自分は知らないが、そこを読んだ時に「この本は自分がそう思っていたよりも内容が深かったのだ」と気付かされたのだと思う。
※不正行為の犠牲者だからと言って他人を傷つけてもいいわけではない、と著者が思っていたにせよ何故そのエピソードと考察をわざわざ公表する文書の中に書き残そうとしたのかという意味。
解放されて気が大きくなる(?)というのが"自然"だろうに、その気分に掣肘を加えられた……その雰囲気に水を差されたことで印象に残るようになったのではないかと思う。 [参照]
解放された収容者("囚人"か?)
夜と霧だったか確証をもてずにいるのだが、確かに収容所から解放されて出てきた時に他の収容者が他者の所有する畑(?)に勝手に入って勝手に作物を取ってしまったというような描写があったのを記憶している(この話、前にも書いたかな?🤔)。
いくら状況が状況とはいえ取っちゃいかんだろうみたいな感想が述べられていたと記憶しているのだが、妙にそれが強く心に残っている。
それによって倫理観的何かの何たるかを刻み込まれたような気がするからだろうか?(だからといって自分が倫理的であるとは思わないが……🤭)
大昔に何かの本で読んだという話なので、夜と霧とは全然関係ない可能性もありそう……。 [参照]
新聞へのある投稿に関連して
>一流企業勤の収入があれば逃げられそうなもんだけど
多分収入があっても精神的にやられていて逃げる気力がなくなっているのでは?
働けなくなる≒収入がなくなる恐怖だとか、今まで上手くやってきていた(ハズ)なのになんで上手くいかなくなったのか/ここで挫折するのかだとか色んな思いが辛い状況の中で去来するはず……(想像)。
精神科へとりあえず行って療養するのが良いのだろうけれど、では具体的にどこで休むのかor休める環境がどこにあるのかみたいなことにもなるのかも。
物理的に場所を用意できても精神的圧迫感からどうやって解放されていけば良いのか……。
ある程度の年齢になってこういった親子の話が出てくる時にはもしかしたら子の精神的成熟度みたいなものがまだ充分高くなかった可能性もあるのかもしれない……(憶測)。
新聞のその記事は色々辛いもの/背景が濃縮されているような気がします。
ネタであって欲しいし、関係者は今は幸せになっていて欲しい(切実)。 [参照]
何故説明をしないのか?
自分が理解しない場合、理解しない理由を
(1)その分野における基礎的知識の欠如や
(2)前提や状況の把握をしていないこと
(3)自他の違い
(4)相手が実は不正確なことを言っている
などに求めたりする。
多分この際にどうしようもなくなりそうなのは、先天的や乗り越え難い要因によって理解しないという事実が生まれている場合だと思われる。
だがいわば"後天的"要素や可変的要素にアプローチするのは問題解決に資するのかもしれない。
どの要素までを可変的と見做すかというボーダーラインの設定において、自分の取った不可変的要素の見積もりは大きすぎたり広すぎたりしていたのではないか。
そしてそれが他人への説明を安易に諦めるという行動様式•思考様式の採用に繋がっていたのではないか。
「説明能力の不足」と換言可能では?
無意識のうちに、
(1)ある程度理解力が備わっていたり
(2)状況を把握していたり
(3)すぐピンとくる人達
(4)知的に恵まれていたりするような人達
を読者として想定していたのかもしれない。
筋道立てて話さなくても行間(?)を自分で埋めていくことのできる人達というか……。
少ない単語から文脈•状況•背景を想像できる人達というか……。
飛び石的な論理の展開をしてもついて来ることのできる人達を相手として想定していたのだろうか?
いざ説明を緻密化(?)•精密化しようとすると何をどこまで説明する必要があるのかすらわからなくなってくる……。
誰かに予め読んでもらって意味が通じるか確認しておいた方が良いのかもしれない。 [参照]
直接的な回答を避ける癖?
ある人からある出来事についての感想を求められたのだが、その出来事に掠っているかすら微妙な別の事柄についての感想を言ってしまった。
それを聞いた相手は沈黙した。
そして相手の視線が自分に突き刺さっているような感覚があった。
何故真正面から感想を言わなかったのだろうと後から自分でも思ったが、恐らく言ったら差し障りがあると無意識のうちに思って自粛したのかもしれない。
別の感想を言うことによってはぐらかそうとしたのだろうか?
恐らくそこまでのことをしようとしたのではないと思う。
答えたくないが、答えないという事実に自責の念を感じたくもないために代わりとして何かそれらしいことを言おうとしたということなのではないかと思う。
それが何の理由に基づいていたかはさておき、頓珍漢な回答をしつつも自分は平然として何もおかしいことはないというような顔をして堂々としていたのではないかと思われる。
回答になっていない回答をしていることに気付いていないような顔をしていたのだろう……😨
フーガ(音楽)を好む。
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