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二重転回 さんがブースト

Fedibirdの運営費について(支援のお願い)(3/3)
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なお、この寄付窓口については、インフラに必要な費用に限定しています。このサーバが長く安定して続くことに対して、自分も関与していきたい、という方にご参加をお願いします。

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定旋律にカノンを付す遊びはなかなか興味深くて、多分フーガを書いているよりも面白い。

とはいえ、一般的な順行タイプのカノンばかりでは飽きてくるので、反行や拡大などに手を出してみるのも良いかもしれない。
音度や入りの間隔の設定のみならず、それを転回可能なように書いておくなどすれば実際の楽曲にも応用可能だと思う。

フーガは自由すぎて時々何を書いたら良いのかわからなくなるが、カノンは否応なしに縛りが入ってくるのでそれを解決しながら音楽が生成されていくさまを眺めるのが楽しい。

以前書いていた、ソプラノとテナーによる2声のカノンにバスを付けたものに楽器を割り当てた。
テナーはソプラノより1小節遅れて、下7度の音程から始まる。和声的に安定しやすく書き易かった。

ソプラノはヴァイオリンとフルートをオクターブ重複、
テナーはホルンとヴァイオリンのユニゾン、
バスはチェロとコントラバス。

通奏低音的に和声を充填する為の楽器も入れようかと思っていたが、無しにした。コントラバスを入れる事によって和声を感じ取り易くなったのではと思っている。

ここのままではあまり響きが良くないかもしれないので、若干無理はありそうだがテナーを8度上げてソプラノ化しておこう。
テナーをソプラノ化すると、その旋律とアルトの定旋律との重なり方がどうも少しぎこちない感じになりそうだ。

ただアルトの音色をソプラノのそれと馴染みにくい、異質なものへ変えておけばそのぎこちなさは目立たなくなるのかもしれない。

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こんな時間まで定旋律の下に2声カノンを付ける遊び(?)をしていた。

アルト音域に定旋律がある。
バスが入った後に、テナーがその5度上を1小節遅れて入る。

折角のカノンなのに、後続声が内声になってしまい勿体ないと思う。
それに全体的に音域が低すぎる。
ソプラノは何故入っていないのか?

アルトに定旋律を置くなら、バスの12度上にソプラノを置いてカノンとした方が"映えた"だろう。
そしてカノンを作る2声部が8度なり15度なりで転回していればもっと面白かっただろう。

実際、知識の無さを恥じて俯いているのもなかなか大変なものだと思う。
そうしているよりは取り組む知識が如何に初歩的なものであれ、取り組まぬよりは取り組んだ方が良いように思う。

幸か不幸か、何の役に立つかわからぬ知識に親しむ事には何らの抵抗がない。
尤も役立ちそうな知識だとは思うが……。

何も期待せずに、そして気負わずに娯楽感覚で付き合える情報のある事を嬉しく思う。 [参照]

見るだけでわかる微分積分などという本を読み終えた。
"完全に理解した"気になったのだが、実際はどの程度理解しているのだろう?

結構面白かったので、引き続いて高校数学が150分でわかる本というのにも手を出してみた。

高校時代は実は殆ど勉強せずに過ごしていたのだが、欠けている知識を何処かで補えたら良いと漠然と自分は思っていたのだろう。
その想いが実る機会が訪れた事を嬉しく思う。

来月末に大腸内視鏡検査をする事になった。
また、来月上旬にMRワクチン(追加接種)を打つ事にもなった。

これらの実施に際して、大腸内視鏡検査はコロナ感染後1ヶ月経過している必要があるらしく、MRワクチンの方も風邪を引いているとダメらしい。
感染予防は普段から心掛けてはいるものの、日本ではこれからコロナがまた大変流行りそうなので、無事に過ごせるのか少し不安である。
特に大腸内視鏡検査の方は受けられなくなるとマズいことになりはせぬかと大変不安である。

musescore4、たまに開くけれどゴチャゴチャしている感じがして使いづらい。
musescore2に戻そうかな?

別に複雑な機能が必要なのではなくてシンプルかつ直感的な操作感というか、思考に馴染みやすくなって欲しい。

自分が慣れていないだけなのだろうか?

質問の内容に正確に対応した一問一答的な回答をしないと訝しまれる場合もあるのだろう。

愚直に回答してしまうと相手の会話のペースに乗せられてしまう事もあると思う。
それに、こちらも「そもそもそれは実は違うんだ」等と先に言いたい場合などもありえる。
また、回答したい内容があり過ぎる為にどれから話せば相手が一番理解しやすいか等と考えてしまって相手の求める質疑応答の流れから逸れてしまう事もありえる。

例えば「聞いた事にだけ答えろ」等と言われてしまうと萎縮してしまって相手の誘導尋問的な、心理的な操作が含まれうる会話に乗せられてしまう場合もありうる。

相手のペースに乗せられないようにする為には時と場合によっては、"率直•素直"ではない回答を用意する事も必要かと思う(例えばはぐらかしたり等)。

「思う」だとか「多分」を文章に入れると、妄想だの思い込みだのと叩かれる世界が存在するらしい……。

結局のところ、ストレス発散させてくれる相手が欲しいのだろう。

もし反論したいなら相手に根拠を要求すれば良いだけだし、叩く前に自分側の根拠を突き付ける事だって出来たはずだ。

議論を装った攻撃……これが実はディベート的な何かの本質なのかもしれないが、お互いの根拠を持ち寄って真理を探求しようとする仲間だと相手の事を認識する事はできないものか?

「あなたは私の発言について誤読をしている!」等と批難するコメントを某所にて見掛けた。

しかしそもそもその誤読されたとかいう発言は主語がはっきりしていないだとか、文章として完全性(?)が低いのではと自分は感じた。

そもそも完全な文章など恐らく存在しないような気もするが、相手がどうして•何故読み違えたのかを知った上で誤読だと指摘した方が良いのかも等と思った。

過去の苦い体験が現在の足枷となる? 

一時期話の合わない人達と一緒に過ごさざるを得ない状況に自分は置かれていたのだが、その時の後遺症なのだろうか?

つまりギアを下げて考えたり話したりする習慣というか癖のようなものが付いてしまったのだろうか?

本来もっとスムーズに色々行えるはずという思いが強いのだが、これは自分が自分自身に対してブレーキを絶えず軽く掛けているような状態に例えられるのかもしれない。

そしてそういった人々と過ごさざるを得なかったそういう時期やそういう人達との関係や記憶について、自分は早く記憶の中から除去したい、拭い去ってしまいたいと切望している……。

>謀将の類が肉親やら誰やらを好き放題に陥れる

まぁこれは猜疑心が原因とは限らないような気もしますが……。 [参照]

病的な疑い 

自分は猜疑心が強すぎるのかもしれない。

以前からスターリンがプレゼントをくれた周りの人を疑う逸話や、謀将の類が肉親やら誰やらを好き放題に陥れる話が好きだったのだが、こういう嗜好は自分の中に潜んでいた傾向に応じていたという事だったのかもしれない。

とある心理テストをする機会が最近あったのだが、優しさを表すらしい要素が非常に低く出ており、何だかなという気がした。

何が言いたいかというと、猜疑心と冷淡さが相俟って身近に今までいた人々に対してさえも自分の心が冷え切ってきているのではないかという事である。

独裁者やワンマン企業やら一世一代で成り上がったような成功者的な人々が陥りやすい心理的傾向がこのようなものであるという話を聞いたのだが、あいにく自分はそのような立場ではない。

どこか先天的な部分があるのかもしれない。
しかし親族の影響などがもし仮にあるとしても、存命の親族に負の影響を与えてしまう可能性もなきにしもあらずと思われるので、先天的やらもしかしたら遺伝的であるという可能性についてはあまり公にはしない方が良いのかもしれないと思う。

……つまり自分より歳下の親族が結婚や出産をする際に、精神疾患的な何かへの偏見に晒される可能性を一応念の為に視野に入れて、という事。

現実逃避としての本の中の世界 

最近俗世の懊悩から逃れる為にシェイクスピアを利用しているような気がして、自分の居場所が現世にはないような気がしている。

本を読んでいる最中には頭が休まるものの、顔を上げて本の世界から出てしまうとそこには頭を悩ます世界が存在しているように感じてしまう。

本の外の世界にいると頭の中で炎症か何かが起きているのではないかと思う、医学的にそういう事があるのかは知らないが。
何となく過熱しているような、配線が絡まって熱を発しているような感じがする。

本の中へ逃げ込んでばかりいないで、行く場所を病院に変えた方が良いのだろうか……と最近そんな事をよく思うようになった。

ハル王子戴冠👑 

ヘンリー4世第2部読了。

史劇の流れには大分慣れてしまって、道化的な人々の割って入ってくるような喜劇的部分の存在があってもあまり刺激的だとは感じなくなってきていた。

ここらでドストエフスキーの永遠の夫へ行こうかな等と思っていたが、次のヘンリー5世ではアジャンクールの戦いが出てくるらしいのでヘンリー5世も読んでみようかなという気になってきている。
というか、つい今しがたヘンリー5世をポチった(Kindle)。

実はまだジョン王とヘンリー6世の第1〜第3部も読んでいないし、それにヘンリー8世も後に控えている。

史劇なんて真面目にコツコツ読む人はあまり多くはないだろうと思いながらも、止め時が分からず読み続ける羽目になっている。
……真面目に読んでいるというのは大袈裟なのだが。

論文や紀要などの検索 

何か論文的なものを読みたいなと思った時、何によって検索するのが一般的なのでしょうか?(言語を問わず)

医学分野だとPubMedというのをよく耳にします。
分野ごとに特化した検索エンジン的な何かもあれば、また分野を問わずに汎用型ともいえるような検索システムもあったりする感じなのでしょうか?

自分の気になっている分野についての成書を漁るのもなかなか楽しいのですが、書かれている情報の大半が自分にとって既知のものであったりするとその後の購買意欲に影響が出かねないと思います。

そういったものを購入するよりは、新規性のある話題について論じられた論文に手を出してみた方が良いのかな等と思った次第。

Noを言う必要がある 

発言やリアクションが少ないせいか、あまり関わった事のないひとから軽んじられがちであるような気がする。

大人し過ぎるとか、物を言わずNoも言わないだとか、弱そうに見えるだとか多分そのような印象を抱かれている事が多いように感じる。
頭が弱いのではないか等もあるのかもしれない。

実際の自分は割と過敏というか怒りやすいタチというか、Noと言う事に快感を覚える性格であると思う。
そしてそれらが社会的にマイナスの評価を与えられかねないと理解しているにも拘らず、過激なNoを突き付けて喜んでしまうようなところがあると思う。

何が言いたいかというと、そうやって自分があまり弱くはないと証明する為にナメられない為の言動を取るというのは割と面倒であるという事である。

こういう相手にナメられない為の言動は大体初回の一回だけ実行すれば済む事が多い。
ただ初対面の相手ごとにこんな事をするのは割と手間だと感じる。

多分自分のやっている事は威嚇的に振る舞う弱そうな生き物の行動と少し似ているのではないか。
エサ•弱者ではなく、虐めやイジりの対象として良い訳でもないという事を相手に理解させるのには割と大変なコストが掛かっているように思われる。

そしてこうしたコストが莫大となる事を相手は知らないのかもしれない。

ひと付合いの不幸 

嫌々ながらひとと付き合うというのをどこまで許容するか。

正直に言って、そういったものを許容していられるほど自分の人生に余裕はないと感じる。

忍耐強く我慢しつつひと付合いを遂行するのはあまりにも骨が折れる。
そして与える事の美徳よりも身を削られる痛みの方をより強く感じてしまう。

自分自身の幸福を他の誰かが用意してくれる訳ではなさそうだという事が歳を重ねるにつれ、一層強く認識されてくる。

痒いところに手が届かせるのはつまりは自分であって、親しい誰かという訳でもなさそうに思われる。

そう思う時、どうして自分の幸福の追求について不熱心でいられようか?

そしてしぶしぶひとと調子を合わせている時、にこやかな表情の裏では己の人生と生き方における不忠実と背信を自分が行なっているのを認識している。
つまりは不誠実な生き方をしていると自分は罪悪感に苛まれる。

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