Fedibirdの運営費について(支援のお願い)(3/3)
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Fedibirdのサービスは無料です。
運営に必要な費用は支援者と運営者で賄いますので、今後とも利用者が負担する必要はありません。
しかし、快適で安定したサーバ環境を持続的に維持するためには、分散された財源による安定した資金が必要です。
そこで、利用者自身でサービス維持に参加する方法を用意しています。
Fedibirdを安定利用できるよう維持に参加したい方、Fedibirdの理念に賛同し維持継続を後押ししたい方は、Open Collectiveによる寄付窓口よりご協力をお願いします。
https://opencollective.com/fedibird-infrastructure
できるだけ多くの方に少しずつ協力いただけるとありがたいのですが、くれぐれも無理はしないでください。
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なお、この寄付窓口については、インフラに必要な費用に限定しています。このサーバが長く安定して続くことに対して、自分も関与していきたい、という方にご参加をお願いします。
また、サーバの安定維持に寄与する以外の特典はありません。
※ OpenCollective上で寄付者として名を連ねることはできます。匿名にすることも可能です。
こんな時間まで定旋律の下に2声カノンを付ける遊び(?)をしていた。
アルト音域に定旋律がある。
バスが入った後に、テナーがその5度上を1小節遅れて入る。
折角のカノンなのに、後続声が内声になってしまい勿体ないと思う。
それに全体的に音域が低すぎる。
ソプラノは何故入っていないのか?
アルトに定旋律を置くなら、バスの12度上にソプラノを置いてカノンとした方が"映えた"だろう。
そしてカノンを作る2声部が8度なり15度なりで転回していればもっと面白かっただろう。
質問の内容に正確に対応した一問一答的な回答をしないと訝しまれる場合もあるのだろう。
愚直に回答してしまうと相手の会話のペースに乗せられてしまう事もあると思う。
それに、こちらも「そもそもそれは実は違うんだ」等と先に言いたい場合などもありえる。
また、回答したい内容があり過ぎる為にどれから話せば相手が一番理解しやすいか等と考えてしまって相手の求める質疑応答の流れから逸れてしまう事もありえる。
例えば「聞いた事にだけ答えろ」等と言われてしまうと萎縮してしまって相手の誘導尋問的な、心理的な操作が含まれうる会話に乗せられてしまう場合もありうる。
相手のペースに乗せられないようにする為には時と場合によっては、"率直•素直"ではない回答を用意する事も必要かと思う(例えばはぐらかしたり等)。
病的な疑い
自分は猜疑心が強すぎるのかもしれない。
以前からスターリンがプレゼントをくれた周りの人を疑う逸話や、謀将の類が肉親やら誰やらを好き放題に陥れる話が好きだったのだが、こういう嗜好は自分の中に潜んでいた傾向に応じていたという事だったのかもしれない。
とある心理テストをする機会が最近あったのだが、優しさを表すらしい要素が非常に低く出ており、何だかなという気がした。
何が言いたいかというと、猜疑心と冷淡さが相俟って身近に今までいた人々に対してさえも自分の心が冷え切ってきているのではないかという事である。
独裁者やワンマン企業やら一世一代で成り上がったような成功者的な人々が陥りやすい心理的傾向がこのようなものであるという話を聞いたのだが、あいにく自分はそのような立場ではない。
どこか先天的な部分があるのかもしれない。
しかし親族の影響などがもし仮にあるとしても、存命の親族に負の影響を与えてしまう可能性もなきにしもあらずと思われるので、先天的やらもしかしたら遺伝的であるという可能性についてはあまり公にはしない方が良いのかもしれないと思う。
……つまり自分より歳下の親族が結婚や出産をする際に、精神疾患的な何かへの偏見に晒される可能性を一応念の為に視野に入れて、という事。
ハル王子戴冠👑
ヘンリー4世第2部読了。
史劇の流れには大分慣れてしまって、道化的な人々の割って入ってくるような喜劇的部分の存在があってもあまり刺激的だとは感じなくなってきていた。
ここらでドストエフスキーの永遠の夫へ行こうかな等と思っていたが、次のヘンリー5世ではアジャンクールの戦いが出てくるらしいのでヘンリー5世も読んでみようかなという気になってきている。
というか、つい今しがたヘンリー5世をポチった(Kindle)。
実はまだジョン王とヘンリー6世の第1〜第3部も読んでいないし、それにヘンリー8世も後に控えている。
史劇なんて真面目にコツコツ読む人はあまり多くはないだろうと思いながらも、止め時が分からず読み続ける羽目になっている。
……真面目に読んでいるというのは大袈裟なのだが。
論文や紀要などの検索
何か論文的なものを読みたいなと思った時、何によって検索するのが一般的なのでしょうか?(言語を問わず)
医学分野だとPubMedというのをよく耳にします。
分野ごとに特化した検索エンジン的な何かもあれば、また分野を問わずに汎用型ともいえるような検索システムもあったりする感じなのでしょうか?
自分の気になっている分野についての成書を漁るのもなかなか楽しいのですが、書かれている情報の大半が自分にとって既知のものであったりするとその後の購買意欲に影響が出かねないと思います。
そういったものを購入するよりは、新規性のある話題について論じられた論文に手を出してみた方が良いのかな等と思った次第。
Noを言う必要がある
発言やリアクションが少ないせいか、あまり関わった事のないひとから軽んじられがちであるような気がする。
大人し過ぎるとか、物を言わずNoも言わないだとか、弱そうに見えるだとか多分そのような印象を抱かれている事が多いように感じる。
頭が弱いのではないか等もあるのかもしれない。
実際の自分は割と過敏というか怒りやすいタチというか、Noと言う事に快感を覚える性格であると思う。
そしてそれらが社会的にマイナスの評価を与えられかねないと理解しているにも拘らず、過激なNoを突き付けて喜んでしまうようなところがあると思う。
何が言いたいかというと、そうやって自分があまり弱くはないと証明する為にナメられない為の言動を取るというのは割と面倒であるという事である。
こういう相手にナメられない為の言動は大体初回の一回だけ実行すれば済む事が多い。
ただ初対面の相手ごとにこんな事をするのは割と手間だと感じる。
多分自分のやっている事は威嚇的に振る舞う弱そうな生き物の行動と少し似ているのではないか。
エサ•弱者ではなく、虐めやイジりの対象として良い訳でもないという事を相手に理解させるのには割と大変なコストが掛かっているように思われる。
そしてこうしたコストが莫大となる事を相手は知らないのかもしれない。
ひと付合いの不幸
嫌々ながらひとと付き合うというのをどこまで許容するか。
正直に言って、そういったものを許容していられるほど自分の人生に余裕はないと感じる。
忍耐強く我慢しつつひと付合いを遂行するのはあまりにも骨が折れる。
そして与える事の美徳よりも身を削られる痛みの方をより強く感じてしまう。
自分自身の幸福を他の誰かが用意してくれる訳ではなさそうだという事が歳を重ねるにつれ、一層強く認識されてくる。
痒いところに手が届かせるのはつまりは自分であって、親しい誰かという訳でもなさそうに思われる。
そう思う時、どうして自分の幸福の追求について不熱心でいられようか?
そしてしぶしぶひとと調子を合わせている時、にこやかな表情の裏では己の人生と生き方における不忠実と背信を自分が行なっているのを認識している。
つまりは不誠実な生き方をしていると自分は罪悪感に苛まれる。
フーガ(音楽)を好む。
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