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小川洋子「密やかな結晶」を読んだ。

作中で「消失」と称される現象は、一部の例外を除いた人々から、特定の物事に対する感慨を取り去る。そして「秘密警察」なる組織はそれを推し進める……。
例えば香水が消失を迎えれば皆、香水を前にして何の香りも思い出も喚起できなくなり、さらには香水そのものを持ち続けることも秘密警察によって阻まれる。

同著者「薬指の標本」も以前手に取っていたから、「密やかな結晶」の作中作(小説)は変奏のよう。最後に閉ざされる扉。
でも印象は大きく異なり、記録する者と保存される者との対比が胸に残る。
消失が訪れても何も失わない、忘れない、その記憶とともに生きる人……

昔、大切にしていたのに、今はどうでもよくなってしまった事柄や、人間。または自分の一部。
誰もがこうした忘却と共に生き、消失はいつでも訪れる。

描かれるのは集団的消失でも、これは個人の領域でだって頻繁に発生する現象で、それは救いでありながら悲しい出来事なのかもしれないなぁと思っていた。忘却は。
仮に、消失を迎えたのが自分の好きでないもので、それにまつわる記憶が嫌なものであっても。
いっそ秘密警察の手を借りたいほどつらい出来事も、永劫に忘れずにいられたら、その傷も血も痛みもまた結晶になるだろう。

読書タグの投稿を見て、そういえばこちらのタイトル、確か自分の本棚にも(かなーり前から)放置してあったのでは……と積読していたのを出してきた。
表紙が真っ赤。

西加奈子「通天閣」

"もう十二年ここに住んでいるが、向かいのそいつの名前を俺は知らない。何の仕事をしているのかも知らないし、話したこともない。ただ知っているのは、俺より前から住んでいたということだけだ。"
(西加奈子「通天閣」(2009) ちくま文庫 p.13)

街、社会、というのは奇怪な場所。
一生関わる機会もなさそうな人間たちが、一人とは言わずわんさかと、恐ろしいほど近くで「私」の周囲に存在している。

通勤の際に電車で読んでいるといっそう、車内で座ったり立ったりしている乗客それぞれの生活を妄想せずにはいられない。
あの、個々の身にその時、どんなことが起こっていようと、いかなる背景を背負っていようと、世界に何の影響も及ぼさない「はっきりとした」感じ。
ここがそういう場所であると実感する瞬間、その感触。

生活の途方のなさのようなもの。
他人の人生は、自分にとってはどう足掻いてみてもフィクションになってしまう。
通天閣にのぼったことのない私にとって、小説に描かれたその塔が、まったく架空の存在であるように。

ドゥームニ茶園
アッサム FTGFOP1

ストレートが特においしかったホールリーフ
目安よりも気持ち茶葉多めにいれて、蒸らし時間はそのままにしたものが好き、かもしれない。
どことなく草花の「青み」のようなものを感じさせる香りと風味が無二。

インドのアッサムは降水量が多い地方で、別に関係ないのに家の外でも雨が降っていると頭に浮かぶ。
もう10月に入って現地の雨季はあけたかな。

JR北海道 釧網本線
B76 北浜駅(Kitahama)

藻琴駅のおとなり。

映画「網走番外地」の撮影が行われた場所のひとつで、この北浜駅自体の所在地も末尾が「無番地(番外地)」らしかった。たまにある地番のない土地。
もと国鉄の民営化以降、敷地がそのまま残り、使われている影響を感じる。

北浜駅待合室の内部、壁の4面にも、天井にもびっしりと訪問者の名詞が貼られている(ちょっと怖い)中に、乗車券や航空券を残していく人もあった。
とりわけ、もう運行を終了した鉄道の切符なんかが発見できると面白い。

海に面した陸地のふちをなぞるように走る釧網本線。
でもそのうち北浜駅を取り上げて「最もオホーツク海に近い」と称する理由は、ホームに居ながらにして流氷を視界に収めることができる点にあるらしい。茂みや建造物に遮られず海を拝める。
駅舎の横には小さな展望台も。上るとオホーツク海だけでなく、天気が良ければ知床連山の一部も見えた。

ここで偶然出会ったのは快速「しれとこ摩周号」。
1日に1往復しかしておらず、何も考えずにホームにいたところ、網走方面から来てくれたのが幸運だった。目を凝らすと遠くから走行してくるのが、ライトでわかる。

非電化区間を走行する1両編成の車両はひたむきな感じがする。

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JR北海道 釧網本線
B77 藻琴駅(Mokoto)

駅名が「もこと」で、電報を打つ際に使われる略号が「モコ」なの、なんか……かわいい感じの響きだな……と思っていた。
モコ。
じゃあ、これをコピー&ペーストして横に並べてみたら、モコモコになるんだろうか。でも、基本的に鉄道の駅はコピペできない。あっという間に土地も線路も足りなくなる(そういう問題ではない)。

ここは大正13年に開業した。
近年、1日の平均乗車人数は15人に満たなくなっている。
網走方面へ向かう車両は、1日に約7本。
知床斜里・釧路方面へ向かう車両も、1日に約7本停車する。

手を入れながら存続している古い駅舎の中には現在喫茶店があって、一応、営業時間に行ってみたのだけれど開いてはいなかった。
都合により休業していたり、開店の時間が変わったりするのはよくあることだから、しばらく待ってみるも特に何も起きなかったので「覗きに来たよ~」という思念だけを扉の向こうに送っておく。

誰かがお店を開けにきたら、私の残した声だけがボソッと喋ってくれるはず。
怖いかもしれない。

待合室に設置されている椅子の、ひとつひとつ色が異なる部分が好きで、気になった。
別に全部同じ色でも良さそうなのに、わざわざそうなっているところが。

創元推理文庫『オドの魔法学校』
P・A・マキリップ 原島文世訳

引っ越し前のアカウントで、作中に登場するいくつかの食べ物だけ紹介していた小説。
原文(Od Magic)から日本語版の方に切り替えて再読した。

両親を病で失い、弟や恋人にも去られてしまって、孤独を背負う青年ブレンダン。

故郷であるヌミス王国北方の辺境で、植物や動物などの声を聴き暮らしていた彼は、ある日〈オド〉と名乗る女巨人に魔法の才を見出され都のケリオールへと赴く。
庭師の仕事がある、と言われて。
なかなか都の暮らしに慣れない彼は、ある日、学校の庭で不思議なものを見つけた……。

そこから、かつて大志を抱いていたが擦り切れてしまっている教師、望まぬ婚約に揺れる姫君、旅の魔術師の娘、そして書類仕事よりも街を歩くのが好きな地区官吏監……と次々に視点が移りかわり、最後に未来を示唆して物語が収束する。

群像劇というのだろうか、こういう形式。好きな人にはとてもおすすめ。
未知の魔法や知識を恐れて徹底した王の管理下に置き、権力側が決めたことしかできないような教育を学校で生徒に施している、ヌミス王国の現状。それがもたらした歪みや学校設立理念とのずれ、また皆の思惑が、深刻になりすぎない筆致で軽やかに描かれている。

[参照]

サリー・クルサード「羊の人類史」
森夏樹訳 青土社

3分の1位まででとても面白かった部分……それが古来より伝わり、ブリテン島周辺で多くのバリエーションが記録されている〈羊飼いのスコア〉!
ヤン・タン・テセラという数え歌。

文字通りに羊の数を数えるためのもので、1から20がひとつの区切りとなっているのだけれど、その音がなんとも流麗というか呪文みたいで記憶に残る。

1がヤン、2がタン、3がテセラ、
4がペセラ、5がピンプ、6がレセラ……

そして10のディク、まで到達すると、次の11は「ヤン・ア・ディク」即ち10+1ということになるのだが、15のバンフィットになるとまた別の区切りを迎える。
16が「ヤン・ア・バンフィット」……なのでつまりは15+1という考え方。
これ面白くないですか?
その次の区切りが20、ファゴット、でおしまい。

5 ピンプ
10 ディク
15 バンフィット
20 フィゴット

……と、5の倍数のときに他とは末尾の音が異なる語を持ってくることで、これはロープにつけた結び目の印みたいな使い方ができるのだ。
歌うような声が羊たちの合間を縫って、踊るように群れを数える。

ちなみに「ヤン」は英国ヨークシャーで、1を数える方言として今でも残っている。

数日前からストームグラスの内部が吹雪みたいな様相で、できる結晶が大きく、中心の山が白く閉ざされている。
ガラスの山といえば、脳裏に浮かぶのは昔話。それもヨーロッパ各地に残る類の。

有名なのはノルウェーの童話に登場するものや、グリム兄弟が収集した話の数々だが、私にとってはかつて買い与えられた偕成社の本(学年別新おはなし文庫の一冊)に掲載されていたポーランドの童話、「ガラスの山 (Szklanna Góra)」が最も印象に残っているのだった。

これはアールネ・トンプソンのタイプ分類(昔話の類型)では530番、「ガラスの山のお姫様」に振り分けられている。
つまり世界中に似たような物語があるということ。

ポーランド童話に登場するガラスの山には、頂上に黄金の林檎のなる樹が生えている。
ヤマネコの爪と、ワシの翼の力を借り、騎士が斜面を登る。
周囲には過去、登頂に失敗した他の騎士たちの骨が積み上がり、死屍累々としたありさま。

グリム童話「七羽のカラス」に出てくるガラスの山も、死や死後の世界を象徴しているように思える。
でもそれは物語の中で、生者の住まう領域と地続きの部分にあって、隔絶されてはいない。それが「一次元的な昔話」の興味深いところでもある。

私は球体の中の綺麗な山をじっと見ている。

大澤千恵子『〈児童文学ファンタジー〉の星図 アンデルセンと宮沢賢治』を読み終わる。

著者が「星図」と称して抽出した要素には、題で名前を挙げた2人の作品を並べたとき見出せる関連……自尊感情、宗教、他者愛などがある中で、私はずっと「あこがれ」というものについて考えていた。
個人的に、彼らの描くあこがれの様相に共通点を見出していた。

"あのりっぱな堂々とした鳥のところへ飛んで行こう! だけど、こんなみにくい僕みたいなものが、遠慮なく近づいていったら、殺されてしまうかもしれない。でも、かまわない!"
(H・C・アンデルセン「完訳 アンデルセン童話集(二)」大畑末吉訳 岩波文庫 p.141)

"お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい。"
(宮沢賢治「よだかの星」青空文庫より)

自分の命(寿命)と引き換えにしても、そこに行きたい。
結果として死んでしまっても構わないから手を伸ばしたい。

それくらい強い思いが『木の精のドリアーデ』や『人魚姫』にも描かれている。アンデルセンの読者だった賢治へと受け継がれていったものや、影響についてなんとなく想像した。

フォレストレインティーの茶葉を練り込んだサブレ。
オンラインでは取り扱いがないので店頭を訪れたついでに……。

本体の歯触りは軽めでサクサク、しばらく噛んでいるとバターに並んでリンゴ、イチゴ、アプリコットなど果物の風味が滲んでくるのと、不意に塩味を感じる。
ゲランドの塩使用って書いてある。

こちらは季節限定のサブレで、通年でいつも販売されている方がダージリンティー風味のサブレみたいだった。
どちらも日々の中でたまーに食べたくなるような。

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気温が下がった。今!
という勢いで一緒に買ったTWG シンガポールブレックファストをば。
私が利用した店舗では50gから茶葉の量り売りあった。

紅茶と緑茶のブレンドをベースとしてオレンジピールやシナモン、ショウガ、クローブなど各種香辛料の風味があるものの、強い刺激や重たさとかは全然なくて、むしろ全体的にはまろやかでさえある。甘みも。
後ろの方にバニラが控えめに。

飲むと身体が温まる感じ、する。

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この北半球にいて、南十字星(Southern Cross)を拝める場所というのはさほど多くない。たとえば沖縄、八重山諸島の方まで下らなければ、大抵は地平線の向こうに隠れてしまっている。
けれど坂出にはとある「南十字星」が存在していて、ひっそりと人間を招いているのだった。

喫茶店。
店名はコーヒーラウンジ サザンクロス。
暗くなると赤く発行する看板の文字に、ガラスケースの中の食品サンプル、レンガ風の細めの階段……ダートコーヒーのマーク。屋根付きの商店街にあってその店舗部分は2階になる。

何とも言えないフォルムの椅子には印象に残る趣がある。海や畑や宇宙から疲れて帰って来た人を、そっと受け入れてくれるような形。ほとんど黒に近い深緑色も目を優しく癒してくれる。
椅子は硬そうな感じもあるけれど、座ってみると硬くない。

クリームソーダはアイスが山盛りだった。

"「よろしゅうございます。南十字(サウザンクロス)へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。
 カムパネルラは、その紙切れが何だったか待ち兼ねたというように急いでのぞきこみました。"
……宮沢賢治「銀河鉄道の夜」青空文庫より
aozora.gr.jp/cards/000081/file

定期的に飲みたくなって帰ってくる
TWGの1837 Black Teaをいれる夜。

ほのかなキャラメルやベリー系の香り。砂糖やミルクを加えるのも好き。
本当は焚き火のそばで味わいたい系統なので、ちょっと時期尚早だったかも(9月下旬なのにまだ全然蒸し暑いよー)

世には焼かれたオムライスなるものが存在しているのだと知って、食べに行ってみた2件……

(1)こぐま[曳舟]
卵部分がしっかりめに焼かれているタイプで、チーズ要素あり。セットに小鉢とミニスープがついてくる。ミルクティーフロートを一緒に頼んだら不思議なくらいよく合った。
店内の椅子と机が昔の小学校のやつみたいなので、トレーが運ばれてくると雰囲気がすごく給食。おもしろい。

(2)カフェサロンソンジン[センター北]
卵部分がなめらかでとろみがある。
まるで器自体が鉄板のように熱を持っていてジュウジュウ音がし、早めにスプーンでライス部分を削っていかないと焦げ付いてしまうくらいの熱さ。
このボリュームにパンケーキセットなんて無謀だろ! と思いつつも空腹だったので注文したら一瞬で胃袋に消えた。おいしかった。

私はどうやら、ケチャップライスの部分に鶏肉が含まれていないオムライスが好き……かもしれません(まだ何が好きか模索中)

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能取岬(のとろみさき)灯台。

近代遺産の大きな魅力は、それ自身の「職務」と「外観」がもうガッチリ結びついていて不可分なところ……だと思っている。
個人邸宅とはまた違った魅力。家よりも限定して、特定の目的のために働くものとしての構造がそう感じさせる。

特に灯台は立地も相まって、なんというか背中に声を掛けるのをためらってしまうような佇まい。
目立つしましまの柄の服を着ている。
主には海を渡る人々のための指標であるはずが、陸の側から見ても、そこにいてくれると安心する存在である。

大正6年に建てられた能取岬灯台には、昭和23年の頃までは宿舎に灯台守さんがいた。
面しているオホーツク海が流氷により閉ざされ、船舶が航行困難となる時期は、おやすみを取っていたらしい。とても寒そうだ。やがて無人化し、灯台はひとりになった。

後で向かった近隣のオホーツク流氷館では流氷が立てる音の録音を聞いたのだが、押し寄せる流氷がぶつかり合うと、何かのうめき声のように聞こえる。低音の唸り。
市川春子の漫画「宝石の国」の世界で、重なり合った氷のきしむ音が声に聞こえる、という描写を読んでいたのを思い出した。本当にそうらしい。

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河出書房新社「塵よりよみがえり」
レイ・ブラッドベリ 中村融訳

先日手に取った、同著者「何かが道をやってくる」でも描かれていた〈秋の民〉。邪悪な存在と推測され、魔力を持ち、死なず永遠に存在し続ける闇の住民たち。
ジムとウィルにとっては、彼ら家族と町をおびやかした、恐ろしいものだった。

どうやら「塵よりよみがえり」の方では、この秋の民の一族から見た情景や、さらにその屋敷に置き去りにされた『普通の人間』……魔族に育てられたティモシーの物語が描かれていると分かる。
不思議な能力を持った彼らと同じようになりたい、と無邪気に願い、けれどその本質を深く知っていくことによって、やはり人間として生き、死にたいと願うティモシー。

でも一族の滅びを前にして、彼の心には皆に愛された事実が残っていた。

〈秋の民〉一族は通俗的な善と対照的なようだけれど、不思議なことに、一部の幽霊のような存在は『不信心者の数が増えるほど存在を保てなくなる』みたいだ。反対だと思っていた。
光を信じる者がいなければ影も存在できず、光など虚無だと打ち捨ててしまう世界にはもはや闇の入り込む余地もない。そういう点で、虚無主義に抗おうとする作者の意思も伺える。

その鍵となるのはやはり『記憶』や『記録』なのだった。

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それから、言わずと知れた網走監獄の敷地内に立ち並ぶ建物群の豪華さ……。
7月半ば頃に見学して、広大な敷地を長く歩き回っていたら、気を付けていたのに軽度の熱中症になりました。夜に発現した症状がしんどかった。

写真は
表門(大正11年完成)
旧庁舎(明治45年と大正元年に再建)
教誨堂(明治45年に再建)

明治42年に発生した大火で多くの棟が被害を受けており、その後に復旧された建物の数が多い。近隣の山火事からの飛び火が原因と言われている。
このとき大火に乗じた脱獄者の数は、0人。収監者は743名いた。脱獄を試みる人間の数は普段からそれなりにいたが、この時は静かだったもよう。

放射状官房で脱獄王(通称)白鳥由栄の肉声が聞けるコーナーがあり、興味深かったので3回くらいボタン押して再生した。年老いてから録音された声なので全盛期の様子は分からない。
体格の大きな人物だとは聞いていたけれど、素手で手錠を捻じ曲げられる腕力は、一体どのようにして獲得するものだろう。

いわゆる官庁舎に洋風の意匠を取り入れる明治期のならいで、監獄とつく場所であっても主要な建物にはシャンデリアボックスや、手の込んだレリーフ、めがね石ほか各所に装飾が施されている場所も多く、毎度のことながら見ていて心躍る。

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恒例の建築見学
網走市立郷土博物館の建物が素敵だった~

設計を手掛けたのは田上義也。
彼はかつて、旧帝国ホテル中央玄関も手掛けたフランク・ロイド・ライトに師事し、その建築事務所で働いていた。
この網走市郷土博物館(前北見郷土館)にも影響がみられ、国内に現存するライトの建築を見学してから赴いたのでさらに面白かった。

幾何学的な意匠は場合によって単調になってしまう運命を背負っているけれど、彼らの作品からは視覚的な退屈を感じない。
また内部では落ち着いて過ごしやすい。
このあたりは鑑賞者・訪問者の好みにもよるので、私は同系統の建物が好きなのだと思う。
いつも雰囲気が気分に合う。

線路を渡った先で右折し、坂道をのぼっていくと、アーチ状の建物正面の背後に赤いドームが見える。
立つ位置を変えると灰青色やクリーム色の柱部分がわずかにきらきら光るのは、正方形のタイルを思わせる素材がそれらの表面を覆っているからかもしれない。

館内を探索していて出会った螺旋階段の周辺は建物が持つ良さの「極致」というか……中心部にあるそれに各要素が集約されるようで、一般人は上へあがれないのに鎖を引き千切って駆け上りたくなった。
階段を支える部分、そのぬるっとなめらかな曲線は周囲の造形から際立っている。

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