職場の図書館に「諦めた生き物たち」みたいな本があって「アホウドリは羽ばたくことを諦めた」とか書いてあったので投げた。こういう手の本ほんとやめて欲しい。人間基準で「◯◯なら当たり前のように〇〇する」という決定がなされた上で、「あきらめ」という人間基準においてあまり良い意味で使われない言葉で進化が評価されるの、入口として良くないと思う。
https://www.amazon.co.jp/できなくたって、いいじゃないか!-佐藤克文/dp/4763137719
また、差別を指摘したときにそれを認められない相手のことを「知性がないから」「盲信(妄信)してるから」などの理由でもって片付けてしまうことが多いけども、差別行為の発露がときに「(どうにもできない自らの苦しみについての)SOS発信」が形を変えて表に出てきていることもある、ということも念頭に入れる必要がある。
これは、反差別目的の批判をしたときに「でもあなたの言説のなかには別の差別に加担するものがありますよ」という指摘を受けた際に、それを受け入れられない場合がある、といった例の説明にもなるような気がしている。つまり「なぜSOS発信が受けとめてもらえないのだ」という感覚が生じ、ゆえに批判を受け入れられない。それは知性がないからでも盲信(妄信)しているからでもない、ということも当人ならわかるはず。
反差別には常に自省が伴うものなので、差別をおこなう者を「無能/低脳/馬鹿/知性なし...etc.(だから差別をするのだ)」と断じ、無自覚であろうとも他者化(=反差別の指摘をする私はそうではない)をした時点で道を踏み外し始めている。つまり我々はみな例外なく「道を踏み外し始めている」のであり、踏み外しては戻り踏み外しては戻りを繰り返す必要があるとも言える。
この矛盾を引き受けながら実践し続けねばならない反差別は、その点において「どこにもない場所であるが、そこを目指し続けている間はどこかに存在する(が、たどり着いたと慢心した瞬間にディストピアへのルートがひらかれる)」ユートピアと類似する。
ごめんトランスヘイトや………………😭ポストし直してもいい…?
そもそも格闘技というのは危険なスポーツであって、シスジェンダー同士の試合であっても骨折などの重い怪我や場合によっては死亡事故など起こりうるものであるのに、トランスが関わった時だけ「危険だ」「命の問題だ」と言い出す人たちがいる。
出生時に割り当てられた性別とは異なるバイナリーなジェンダーアイデンティティを持っているキリスト者。