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友人のひとりから修士を修了したよ!と連絡がきて、思わずおつかれさま、と返したのだけれど、誰に対しても修士修了はおつかれさまかもしれない、と思いました 博士はまだ経験がないからわかんないですが!

BTs まだ投稿をしていないのでわたしの査読らしきものの経験は修論の諮問のみなのですが、(バトラーにしたがって)シスノーマティヴ・ヘテロノーマティヴな前提に疑問を付すわけですが、それについて「客観性」ないしは暗黙に「常識的に」といった前提を持ち出して否定されて、しかし、その前提こそが疑われているものなのですが……と思うも諮問の磁場に固まってしまう……ということがありました。クィアな読みを提示するとき、それが疑問に付しているまさにそのものによって読者から否定される可能性をつねに想定しなければならない理不尽さがあるというか。

青本柚紀 さんがブースト

クィア理論の観点から哲学の論文を出すと鬼の首をとったかのように査読で否定される、それも徹底的に。これを何年も何年も続けてきた。正直疲れたし、僕が奮闘して傷ついて得られるものがないので、心が折れている。

青本柚紀 さんがブースト

査読が落ちた。提出前に読んでもらった方々からもよいコメント頂いて、発表でも前向きな議論ができた。それが査読になると途端に全面否定される。毎回このケース。やっぱり哲学をクィアに読む作業はできないのか。というか、自分にその力がないのか。うちひしがれている。

青本柚紀 さんがブースト

「現代詩手帖」2023年3月号に「分かれ道——フェミニズムとハンマーの共鳴性」という題でクリティークを寄稿しています。

瀬戸夏子さんの批評への批判的言及を起点に、「女」をはじめ、フェミニズムの主体をなんらかのアイデンティティによって規定することがいかに排除や疎外に結びつくのか、あるいは、わたしたちが排除や疎外を避けて連帯するためにどのような目的に向かうべきなのか、について書きました。
サラ・アーメッドの「ハンマーの共鳴性」をそのような連帯に向けたあり方のヒントをくれるものとして扱ってもいます。

批判的言及をした瀬戸さん含め、多くの先立つフェミニストたちの胸を借りて、あるいは周囲のクィアなフェミニストたちとの会話から自分のなかに蓄積されたものを通じて書かれた文章です。願わくは多くの人に届きますように。

どうぞよろしくお願いします!
shichosha.co.jp/gendaishitecho

SNSなどにはずっとあったものが、政治や報道の後押しを受けて拡大しているように感じていて、ほんとうになんとか生存にしがみつくことができているだけで十分すぎるくらいよくやっているのではないかと思います。

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こんなにトランスをめぐる状況がひどくなるならば、『現代詩手帖』3月号を原稿料相当分もらって、それらを色々な人に配ればよかったと思っています……。
フェミニズムを「女性」だけのものに限定することと、トランス差別とはひとつづきだし、そもそも「分かれ道——フェミニズムとハンマーの共鳴性」はトランス差別を許容しうるようなフェミニズムの問題はどこにあるか?を考えたときに、フェミニズムの主体を「女性」として想定することは間違いなくフェミニズムを排除的にしうる要素だと思って書き始めた文章なので……。

ある人たちは他の人たちよりもより居心地が良い状態にある。そして、ある人たちは、他者が居心地が良いと感じるその仕方によって追い出される。私たちがジェンダーの取り締まりについて語るとき、私たちは壁について語っている。つまり、いくつかの人たちが敷居を跨ぎ、通過することを妨げられる様々なやり口について、私たちは語っているのだ。(106頁)

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 あなたの存在が反証の対象であるとき、生存は大変なプロジェクトになる。絶えずあなたの存在を削りとっていくシステムを、あなたは生き延びる必要があるのである。そのように存在を削りとることに携わっているフェミニズムはその名に値するものではない。
 他者の実存を削ることは私たちもまたやってしまう可能性のあるものだ。トランスフェミニズムは一種のダイバーシティ・ワークである。私は On Being Included: Racism and Diversity in Institutional Life (引用註:原文ではイタリック)(2012) で、このダイバーシティ・ワークを二つの意味で論じた。それは、制度を変換させること(しばしば、歴史的に排除されてきた人たちにその制度を拡張することによって)を目指すときに私たちが行う仕事であり、制度の規範のなかで息ができないときに私たちが行う仕事である。これら二つの意味は身体において交わる。制度の規範のなかでまったく息ができない人たちはしばしば、これらの規範を変換するタスクを負わされる人たちである。私たちはジェンダー規範を制度として考えることができる。私たちはジェンダー規範を、私たちがそこに住まう場所として考えることができる。

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サラ・アーメッド(2022)藤高和輝訳「ハンマーの共鳴性」『現代思想』50(5)、90-106頁から、いまの自分に必要な部分を引用……。

天ぷらを作って食べて架空の葬式セットリストを考えていたらこの時間だ……映画やゲームのサウンドトラックでいろいろよさそうな曲はあれど、石橋英子の「Drive my car 」→「Drive my car (Misaki)(ループ)」からの葬送で長谷川白紙「シー・チェンジ」かな……

ノンバイナリーであることを明らかにしている人が彼/彼女と呼ばれるのを見たときにだけ上がる火柱がある

差別的な発言に関する謝罪を「させられた」と見なすことの話 

橋本愛さんの件に限らず、差別的な/差別を再生産する発言をした著名人が指摘を受けて謝罪・撤回などをしたとき、撤回された発言の側に立つ人たちが「〜さんが『過激な』……に『謝罪させられた』」などと書くこと、もっとひどいときにはその解釈をもとに「連帯」を示すことがほんとうによく見られます。が、それはその人が謝罪や撤回に至るまでに重ねたであろう思考や反省をとても軽くみてしまうこと、その人の意志を軽んじることだと思うのですよね……。

Twitterでシス規範・ヘテロ規範に反することを言ってそれが拡散されるとまもなく差別やマイクロアグレッションが飛んでくるの、あらためてろくでもなさすぎる……。わたしのbioを見たとわざわざ書いて「自分のことを女性と呼ばないのか?」と言ってきた人も代名詞が目に入らなかったわけでもないでしょうし……。

自分の読書の経験からしても脚注がかならずしも読まれるわけではないことをわかっているのに、脚注を書くときは絶対読んでくれ、と思いながら書いているのはちょっと不思議かもしれない

⑤最後に、冒頭にある開示について。わたしはそれでよかったのか未だに迷っています。脚注で釘を刺すことはしましたが、すでに別所でも書いたこととはいえ、開示のうえでそこに基づく主張を始めることは、他の書き手に対して開示せよ、そのうえで書けという圧力を発することにつながりうるからです。

フェミニズムにおいても人がそれぞれ規範のなかでばらばらに配置され、その位置をつかみ取り/直しつつ語っている、というのは見過ごせないことですが、同時に置かれた位置だけが問題になってはならない。それは「女」をフェミニズムの主体とすることの根底にあるものと同じだからです。

最近のことでいえば、女性を生きるフェミニストのミサンドリーを男性が生きる人が指摘したときに、ミソジニーの反省のみをしていろ、というように返されること、これも規範のなかで置かれた位置だけが重要視されている事例です。

フェミニズムの主体は「女」であるとまでも言わない人のなかにも、規範のなかで置かれた位置の問題を最優先に考える人も少なくないなかで、開示をしなければ説得的なものとして読まれないのではないか、というおそれによって開示は書かれました。でもそれは同時に、あの文章でそれをすることは戦うべき前提に乗ってしまうことではなかったのか、ということ。(おわり)

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④ハンマーの共鳴性(an affinity of hammers)のaffinityの訳語について。引用含めて、「類縁性」と「共鳴性」のふたつの訳語が登場しますがいずれも藤高和輝さんによる訳語で、前者は『〈トラブル〉としてのフェミニズム』の、後者は「現代思想」2022年5月号の「ハンマーの共鳴性」全訳のものです。

時系列的にいえば「類縁性」→「共鳴性」で、藤高さんの訳語の変化とも捉えられるのですが、あえてそう捉えずに、ダナ・ハラウェイが「類縁性(affinity)とは血縁ではなく選択によって関係性をもつこと」とした文脈を継ぐ「類縁性」の訳を選択したときに押し出される側面も拾うことを試みました。

「共鳴性」の訳のほうが、他者とのつながり方としてそれを提示するアーメッドの文章にふさわしいようにも思われるのですが、一方でアーメッドもまた同質性による連帯を否定する立場を前提としており、「ハンマーの共鳴性」は努力して獲得しなければならないもので、それは「選択的な関係性」である「類縁性」のほうがよく拾うことができるように思われます。アーメッドのいうaffinityは「共鳴性」と「類縁性」のそれぞれが拾うものの間にあるのではないか、ということです。

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