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とりゅう さんがブースト

まさしく、その「小説でもいいし、漫画でもいいし、映画でもいい」という互換性こそがエンタメの本質であり、なぜならエンタメとは様々な媒体に拠ったそれぞれの技法を駆使しながら、最終的には消費者に向けて「物語る」ことを共通の目標とするものだから、というのが私の認識です。だから、少なくともその作品が(小説であれ漫画であれ映画であれ)エンタメとして作られ、消費される限り、その感想が「物語」についてのものばかりになるのはむしろ自然なことだと思います。一方で、人々が「物語」良かったー!とだけ語っているように見えても、実際には「物語」だけを消費しているわけではなく(そんなことは不可能なので)、絵や映像や文体や音楽がそこに影響を及ぼしているわけで、そうした部分を分析的に批評していくことには大きな意味があるでしょう。
もちろん、全ての小説や漫画や映画がエンタメであるわけではないし、物語らない小説や漫画や映画というのも山ほどあるけれど、ネットで話題になるような作品はほとんどがエンタメ作品であり、エンタメとして消費されているのだから、感想が「物語」ばかりになるのもしょうがないんじゃないでしょうか。それは漫画とか小説とか映画とか、あんまり関係ないと思います。

とりゅう さんがブースト

じゃあアンタは何でその仕事をしてんの、したいこと実現できる仕事選んでこそでしょ、その職と主張って合ってる?って言われたら仕事なんだからさあって言っちゃうかも、これは確かに相手に要求すればなかなか傲慢やね すみませんでした

とりゅう さんがブースト

>そもそも物語だけやるなら小説「で」いい
「で」いい(下位)でなく「でも」いい(互換)書いたのですが……
小説は物語のみに還元できないことは承知しています!

とりゅう さんがブースト

媒体の選択が完全に経済性のみだったら"らしさ"を求めることが傲慢ということに納得するけど、実際に媒体を選択する時に経済性の許す範囲内で主張の内容に適する媒体を選んでいるし必ずそれは作品内に反映されていると思っていたので、実際に創作している人からそこは鑑賞者の傲慢とまで言われるとかなりびっくりする

SFですか?→Y/N
FTですか?→Y/N
百合ですか?→Y/N
ドラゴンは出てきますか?→Y/N
動物は出てきますか?→Y/N
などと問いかけてくるオタクのアキネイターがおれの内側にはいます。

この論点もありますね。物語だけやるならWikipediaのあらすじでいい、くらいまで言ってもらえるとそれなりに同意しますが。とはいえ、あらすじや要約にだってかなり表現の余地がありますよ。

とりゅう さんがブースト

そもそも物語だけやるなら小説「で」いいみたいなのもよくわからない話で、漫画や映画を物語だけに還元できないように、小説だって物語だけには還元できないでしょう

作品の評価とは別の話で、「表現者は(あらゆる)メディアを自由に選択できるわけではない」までは言いましたが、「だから作品の出来については斟酌すべきだ」と言ったつもりはないです。
あとは「傲慢だからそういう鑑賞の仕方はすべきではない」とも言っていなくて、強いて言えば「傲慢だと承知しつつ鑑賞すべきだ」という立場です。事実、おれは「映画らしい表現だから良い」「映画でやるような表現ではない」とかは平気で言いますので。

とりゅう さんがブースト

わからない話じゃないけど、作者のバックボーンと作品を切り離せないのは鑑賞として問題ではないか。この人は本当は映画が撮りたかったけど金も人望も芸もないのでハリウッド大作映画の体裁でへったくそな紙芝居をやっていますが、大作映画のように感動してあげましょうとならないか。

「媒体らしい表現をやっているのに鑑賞者は無視している」の前提には「媒体らしい表現をすること」「媒体らしい表現に着目して鑑賞すること」を賞揚する価値観や態度があると思います。そこには傲慢があり、しかし鑑賞/鑑賞者(おれを含む)とは元来傲慢な行為/存在なのでそういうものですよね、ということが言いたいのであって、無視しているか/着目しているか、の話をしたつもりはなかったです。なので、特に逆の意見というわけではないんじゃないですかね。

とりゅう さんがブースト

これ自分の感覚と完全に逆の意見だなと思う、実はもっとみんな媒体らしい表現をやっているのに鑑賞者は無視していると思っていた [参照]

とりゅう さんがブースト

すべての表現者が、あらゆる、とまではいかなくとも複数の表現媒体の中からある媒体を選択する/“できる”わけでないのは自明のことなので、「その媒体特有の表現をすること」「鑑賞においてそれに着目すること」を過剰に賞揚したり、ましてや「(他の媒体もあるのに)なぜその媒体を選んだのか?」と問うたり、「選んだなら選んだなりの表現をしろ」と求めたりするのは、鑑賞者の傲慢にほかならないですよね、と思います。もちろん鑑賞者は傲慢なものなので全くそれでよいのですけど。

おれはキッズの頃から絵を描いていて、(誰にも見せたことはないですが)漫画も描いていて、それらに対する自分の能力を見限って小説を書きはじめ、書きはじめてからも詩や詞や短歌に手を出したりしつつ、常にゲームと映画に憧れを抱きながら小説を書いていますが……

すべての表現者が、あらゆる、とまではいかなくとも複数の表現媒体の中からある媒体を選択する/“できる”わけでないのは自明のことなので、「その媒体特有の表現をすること」「鑑賞においてそれに着目すること」を過剰に賞揚したり、ましてや「(他の媒体もあるのに)なぜその媒体を選んだのか?」と問うたり、「選んだなら選んだなりの表現をしろ」と求めたりするのは、鑑賞者の傲慢にほかならないですよね、と思います。もちろん鑑賞者は傲慢なものなので全くそれでよいのですけど。

明日は言及括約筋の筋肉痛がすごいことになると思います。

なんというか「この怒りを捏ねて小説にしようと思うたのじゃ」状態です。

どういう逆鱗なのかをたとえば一つ紹介するために、最近読んだ本から引用します。
“プラトンの時代から、直立姿勢は、人間を動物から隔てる特徴として見なされてきた。人間のからだは天に向かって伸びていると語られたが、これは、不滅の精神が人間を天使と繋いでくれるからだ。六世紀には、セビリアの聖イシドロスが、このように述べてそうした考えを繰り返した――「人間は、神を探し求めるためにまっすぐに立ち、天を仰ぎ見る。からだをかがめ、みずからの腹を見るように自然が創りあげた獣たちのように、地を見るのではなくしてだ」。”

“猿のような姿勢は、十七世紀からずっと、有色人種、とりわけアフリカ出身の人びとを非人間化する数多くの特徴の一つだった。前かがみになった背、丸まった肩、そしてぶら下がった腕が、長いあいだ有色人種の人びとを猿、あるいは類人猿に似せて描く人種主義的マンガおよび挿絵に用いられてきたのは事実であり、さらにはそれを超えて、無数の歴史的テクストは、姿勢と文明のあいだの相関関係を取り上げさえした――姿勢と人間性との関係ではないとはいえども。”
どちらも『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』からのです。おれからは以上です。
QT: fedibird.com/@abe_dragonslay/1
[参照]

とりゅう  
自分の逆鱗に触れる作品がインターネットでもてはやされているときにやるべき唯一のことをしようと思います。つまり、インターネットから離れておのれの信じるところをおのれの作品に込めることを……。

インターネットから離れてもふつうにムカついていたぜ……!

自分の逆鱗に触れる作品がインターネットでもてはやされているときにやるべき唯一のことをしようと思います。つまり、インターネットから離れておのれの信じるところをおのれの作品に込めることを……。

作品自体に罪はないけど、ふだんからいけ好かない有名アカウントが(おそらく)PHMと並べて語っているのを見て、やっぱりセンスねぇ~となった。

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