まさしく、その「小説でもいいし、漫画でもいいし、映画でもいい」という互換性こそがエンタメの本質であり、なぜならエンタメとは様々な媒体に拠ったそれぞれの技法を駆使しながら、最終的には消費者に向けて「物語る」ことを共通の目標とするものだから、というのが私の認識です。だから、少なくともその作品が(小説であれ漫画であれ映画であれ)エンタメとして作られ、消費される限り、その感想が「物語」についてのものばかりになるのはむしろ自然なことだと思います。一方で、人々が「物語」良かったー!とだけ語っているように見えても、実際には「物語」だけを消費しているわけではなく(そんなことは不可能なので)、絵や映像や文体や音楽がそこに影響を及ぼしているわけで、そうした部分を分析的に批評していくことには大きな意味があるでしょう。
もちろん、全ての小説や漫画や映画がエンタメであるわけではないし、物語らない小説や漫画や映画というのも山ほどあるけれど、ネットで話題になるような作品はほとんどがエンタメ作品であり、エンタメとして消費されているのだから、感想が「物語」ばかりになるのもしょうがないんじゃないでしょうか。それは漫画とか小説とか映画とか、あんまり関係ないと思います。
どういう逆鱗なのかをたとえば一つ紹介するために、最近読んだ本から引用します。
“プラトンの時代から、直立姿勢は、人間を動物から隔てる特徴として見なされてきた。人間のからだは天に向かって伸びていると語られたが、これは、不滅の精神が人間を天使と繋いでくれるからだ。六世紀には、セビリアの聖イシドロスが、このように述べてそうした考えを繰り返した――「人間は、神を探し求めるためにまっすぐに立ち、天を仰ぎ見る。からだをかがめ、みずからの腹を見るように自然が創りあげた獣たちのように、地を見るのではなくしてだ」。”
“猿のような姿勢は、十七世紀からずっと、有色人種、とりわけアフリカ出身の人びとを非人間化する数多くの特徴の一つだった。前かがみになった背、丸まった肩、そしてぶら下がった腕が、長いあいだ有色人種の人びとを猿、あるいは類人猿に似せて描く人種主義的マンガおよび挿絵に用いられてきたのは事実であり、さらにはそれを超えて、無数の歴史的テクストは、姿勢と文明のあいだの相関関係を取り上げさえした――姿勢と人間性との関係ではないとはいえども。”
どちらも『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』からのです。おれからは以上です。
QT: https://fedibird.com/@abe_dragonslay/111934733285446751 [参照]
作家(阿部登龍)。第14回創元SF短編賞受賞作「竜と沈黙する銀河」(紙魚の手帖vol.12)、「狼を装う」(同vol.18)。SFとファンタジーと百合とドラゴンとメギド72が好き。
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通販 http://abe-dragonslay.booth.pm