図書館や古書店で「買った」を著者に告げるかどうかという議論において、図書館を利用する「しか」古書店で買う「しか」ない層、貧困に喘ぎながらなんとか本に手を伸ばしている層のことを考えてしまって、告げることに対する自分の考えを、というところまで辿り着かない。
本を作って売る仕事をしているので、そりゃ新刊で買ってもらえるのがありがたいけど、いまの時代、「本を新刊で買える」ということがずいぶん特別なことになりつつあるんじゃないかというのをcovid19が蔓延し始めてから肌で感じていて…。
給料上がらないのに、物価がどんどん上がっていって、それは本だけじゃないし、生物的な生存と、精神的な生存と両方を両立させることがすごく難しくなってる。
図書館や古書店が、定価で買うことのできない層に本を届けているのは事実で、それが人の命を救うということもたくさんあるのだし。
「根拠のない輸入規制などには政府一丸となって即時撤廃を強く求めていく」
ええっともう一度チェルノブイリから20年後の日本でのヨーロッパ各地に渡る地域からの輸入品の検査状況が垣間見れるリンク貼っておきます。
↓
https://www.pref.aichi.jp/eiseiken/4f/chernobyl.html
もし逆の立場なら同じ事してそうだと思うんだよね。
西村経産相、中国の日本産水産物禁輸に対し「即時撤廃求めている」 : 読売新聞
「科学」「科学的根拠」を水戸黄門の印籠よろしく使っている人々、そも科学とは何かというあたりの根本的な認識はどうも持ってなさそうなんだよな。お上が科学的だと言ったから科学的なのだ!という態度は科学というよりは信仰に近い。
(引用 概訳)
mastodonに全文検索機能まもなく実装
全文検索は #Mastodon `main` ブランチにマージされました。
これはオプトインであり、プロフィールのインデックスを有効にした人々のコンテンツで有効。反映されるには時間がかかりますが、以前から最も望まれていたマストドンの機能の1つでした。
数日中にmastodon.socialとmastodon.onlineにデプロイし、より多くのフィードバックを得て、実際の動作を確認する予定です。
婚姻制度にすべてが集約されてるから、推しカプに大事な契約をさせようと思うと結婚しかない!みたいになるんじゃないか 病に倒れたら法律上のパートナーしか面会できないみたいな制度のほうを変えよう 大切な人間に対する契約の種類を増やそう
……と推しカプの結婚などについて考えるたびに思う
#fedibird 下書き機能自体をつけろっていう話ではあるんですが、とりあえずそれはおいといて……
ダイレクト(指定された相手のみ)や自分限定で投稿して、削除して下書きに戻す、というのがテクニックとしてよく知られています。
この時、WebUIは、投稿を先に削除し、その内容をWebUIのJavaScriptに預けているのですが、これをうっかり失うとそのまま消えてしまいます。
プログラムのバグによるエラーでもそうなのですが、うっかりWebUIがクラッシュしたり、ブラウザを閉じてしまうなどの事故は発生し易いので、そこは注意してください。
ちなみに添付画像は削除後もしばらく保持していて、再投稿する際にそのまま再利用されます。
それと、もうひとつ。
だいぶ先の公開日時を指定して投稿し、それを下書きにするという方法もあります。
こちらは予約投稿を削除せずに内容の編集が可能で、公開範囲も最初から目的のものにしておいて変更する必要がなく、納得する内容になるまで編集し、最終的にOKになったら公開日時の指定を外すことで確定させるというやり方が可能です。
クライアントアプリでは未対応のやり方で、WebUI(ブラウザ)でしかできないですが、有効な手段なので、TIPSとして覚えておいてください。
一方でバイセクシャルはモノガミーに反する“性に奔放“なセクシャリティだと考えられがちでもあります。
モノガミー/ポリガミーの是非は一旦置くとして、いずれにせよ恋愛/性愛の対象になる性がひとつであるかどうかとモノガミーであるかはまったく別の問題です。複数のパートナーを持つ異性愛者/同性愛者もいれば、恋人一筋のバイセクシャルだっていますよね。
ところがクィアな作品においてすら、バイセクシャルは長いこと、一時的な娯楽として同性愛(同性との性関係)を楽しむ存在であるかのように描かれがちでした。『ハートストッパー』のニックのような一人の恋人に全力投球している一途なバイセクシャル、それもシス男性の若者キャラクターというのはかなり画期的で、私はクィア作品でも軽視されがちだったバイセクシャルの存在を丹念に描いていることが『ハートストッパー』の一番大きな特徴だと思っています。
もしバイセクシャルがずるく感じられるなら、根本的な問題は同性愛差別であることを思い出してほしいです。同性愛差別がなければ、つまり同性愛も異性愛も社会で同じように扱われていれば、同性愛者と比べてバイセクシャルが「得をする」ことなんて起きないのですから。
🐦で今度はバイセクシャルがターゲットになってるような話題を目にして、本当に悲しいし、乗せられず踏みとどまってほしいです。
バイセクシャルは他の性的マイノリティからさえ“異性愛と同性愛を好きに行き来する存在“であるかのように思われ、しばしば冷ややかな視線を向けられます。
実際にはバイセクシャルだってパートナーの性別を意図的に選ぶことなんてできないのですが、いざとなったら世間体のために結婚できる、本当はゲイなのに認めたくないからバイだと言い張っているなどの偏見は根強いものがあります(後者はハートストッパーでもニックの兄💩が言ってましたね)。
今の社会において同性間の恋愛/性愛と異性間のそれでは置かれている立場が大きく違うため、異性も対象になり得るバイセクシャルに対して一種の「ずるさ」を感じるのでしょう。→続
多くの人が指摘されているように、今の日本で(世界で)起きているのは、酷い虐待が、DVが、行われている家族で起きていることと同じだと私も思う。
そこを何とかサバイブするために何よりも必要なのは、希望を失わないこと。虐待者はこれでもかと自らの絶望を私たちに刷り込んでこようとするけれど、そこで魂を明け渡さないこと。
絶望の果てに私たちを待つものは、正気の放棄…つまり狂気(現実検討能力の喪失)ですよ。実際にそれに魂を売り渡した連中がどのくらい正気を失っているかを見れば一目瞭然、誰にでもわかるとは思うけど。人間、そうなっちゃった方が楽なんですけどね。
だから、現実を見失わないように、私たちは常に、どんなにつらい現実でも、その現実から目を背けないように、正気を保つように気をつけなければならない。
『1984』のウィンストン・スミスのように。
そしてここには、ある種のパラドックスがある。「最後まで諦めずに希望を持ち続けるには、きちんと絶望し続ける力が求められる」というパラドックス。
私たちは現実の「これでもか」というほどの絶望から目を背けてはいけない。
これは個人の心理療法をしていても常に私が痛感していること。その人の絶望から目を背けてしまうことは、現にその人が直面している絶望に飲み込まれること。
基本雑談してる
社会的問題にもちょっぴりコミットするよ