自分の作品がなるべく自分と紐づいたものであってほしくない、もしくはなるべくそのように見られないようにしたい、みたいなところがあるので、作品と作者が分離できないような感覚を長時間味わうとちょっと溺れてしまうような気持ちになるのかとしれない。
作品だけ好きに持って帰ってほしいし、かと言ってその延長線上で好きなことをぶつぶつと喋りたいし、誰かがふと聞いてくれたら嬉しいと思うし、でもいつでも誰かに聞いてほしいわけでもなく、自分の内の感情を大事にしたいし、誰かの雑音にもなりたくない。私は私の場所で何かをしていて、ほかの人はそれぞれの自分の場所で何かをしている。そういう原っぱをぼんやりと眺めながら笹舟をつくっていたい。
全部成り立たせるのは無理な話で、でもそういうことを考えずに全部気に留めないのも無理な話なので、いかにそれらの欲求たちに折り合いをつけてもらうかという話になる。脳内会議絶賛開催中。
もともと人が多い場所が得意じゃないから、気疲れしやすい気質なのはずっとそうだった。定期的なもの。でも近しい人だけに見られてるのがいいかって言われたらそうでもない。私は誰でもない誰かとして言葉を使ったり作ったものを川に浮かべて流したりしたい。それがどこに行くかは自分でコントロールできないものだと思うし、私の手を離れたそれらはどうか遠くに旅立ってほしいと思う。だから、どこでもないどこかに話していて、誰に聞いてほしいわけでもなく、でも誰かが聞いてくれたらいいね、みたいな場所のあいだをフラフラとしていたい。
人がたくさんいる場所にいると、何かをしなくちゃいけないんじゃないかという気持ちにどうしてもなってしまっていけない。自分の心が弱くて流されやすいところもあると思うけど、それだけじゃないと思いたい。場の雰囲気や影響力から完全に自由になることはできないから、いまはどこにいたいかを選ぼうとするんだと思う。
作りたいから作る、言いたいから言う、みたいなことも、どう思われるかってことをどこかで考えてしまうしいけない。誰かに見てもらう嬉しさを繰り返し味わうと、誰かに見てもらえないと取り残されたような、見捨てられたような気分になる。それはすごく危うい思い込みで、そこから自分を離して危険から遠ざけるのは自分でやってあげないとだめなんだなってこういうときに思い知る。