今年もまた、明年のNHK大河ドラマ便乗本が数多くリリースされる時期と相なった。
しかし題材の特殊性(江戸の遊廓・本屋・浮世絵がメイン)もあって、その多くは文学や美術史サイドからの執筆となっている。実際にも、ドラマ制作の考証部門に文学研究者たちが入っている。
いっぽうで歴史学研究はといえば、ずっと18世紀政治史研究すら低調なので、「動員」をかけられている様子は観察できない。雑誌の特集で本郷(和)さんが田沼政権に論及したり、戦国史をメインにしている某氏が新書を上梓する、といった具合であり、専門外からの発言には驚かされる。
どちらかといえば便乗しない近世史研究者のほうが多い、とも言えそうだ。ただ新吉原については、この分野の第一人者による著作が予定されており、それだけが救いとなろうか。
近世日本が「連邦制」だとすると(そういう学説がある)、もはや当時の「首都」「首府」を云々する意味は皆目無くなるのだが、一体そこらへんはどう考えられているのだろうか。
SNS上にて、JSPS通知のスクリーンショットを投稿しているかたの多いことといったら… ちょっと自分には真似できない。
但馬に「たんば」とルビが振ってある国文学者の本があった。加齢による校正漏れでもあろうか。
ある高名な論者の見解として、《生成AIが普及するとはつまり真実と嘘が入り混じる世界になるということだけど、人類はそもそも長いあいだそういう世界で生きてきた。ついこの間まで写真も録音もなかった。みな記憶で話していた。それでも人類はきちんと秩序を作ってきたわけで、そんなに恐怖を覚えることではないと思う。写真や録音など「エビデンス」を出せば真実が確定する、というこの数十年技術が未熟なために逆に強くなっていた単純な思い込みが失効するだけの話》、なのだという。
この論者が実に歴史を苦手としているのが如実であるが、文献はおしなべて「記憶」に含まれる、エクリチュールとは「エビデンス」に非ず、「記憶」の一環なのであるという立場だと解せば、まずは一貫している。しかし現実に歴史はそのようなものではないし、現行の法制だってそうはなっていない(仮にもそうであれば大混乱に陥る)。
哲学者ジャック・デリダであっても「アルシーヴ」について思考し、「出来事」「日付」の問題について問うていたのである。歴史に興味を失うとはこのような事態かと、改めて実感されるところがある。
https://daiyoshiwara2024.jp/20240208.pdf ☜「本展のテーマである「吉原」という場所は、江戸時代に幕府公認のもとで作られました。この空間はそもそも芸能の空間でしたが、売買春が行われていたことは事実です」。【大吉原展】の主催者説明によると、冒頭からこんな謬論ではじまっているが、そもそも新吉原の町制機構それ自体を遊女屋仲間が担っていたという社会構造すら、念頭に置かれていない。徹頭徹尾、近世江戸の社会的実態に対する関心がないのではないかと疑われる水準である。