ジョン・ライクマンの編集したフーコーの『ザ・ジャパン・レクチャーズ』(ラウトレッジ、2024)に目を通すと、その末尾に収載された「日本のフーコー 蓮實重彦とのインタヴュー」の内容からは、『群像』最新号掲載の「日本語版」では相当に増補されている、ということが理解できる。英文では12の質問に蓮實が答えた体裁になっており、「日本語版」ではメールでの十個の質問に蓮實が返信していることになっていて、分量も大幅に長大な内容をみせる。同誌ではこの内容に「異同がある」とも注記されているが、当然にも両版の違いはたんなる「異同」の域をこえている。こうなるとオリジナルに相当する文面は何であるのか、一読しただけで判断することは難しい。こういうやり方が蓮實という批評家の、読者を困らせるところである。
江戸時代、新吉原遊廓についての歴史学での成果を挙示しておく(おもに都市史とジェンダー史関連)
まず刊行書籍から。
横山百合子『江戸東京の明治維新』
国立歴史民俗博物館監修『性差の日本史』
高埜利彦編『近世史講義』
長谷川貴彦編『エゴ・ドキュメントの歴史学』
『みる・よむ・あるく東京の歴史』5
佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会』
吉田伸之『身分的周縁と社会=文化構造』
塚田孝編『都市の周縁に生きる』
塚田孝『身分制社会と市民社会』
社会的役割の「頂点」が天皇だ(だった)という見解は、近代日本についてしか当てはまらない。少なくとも古代を脱した前近代伝統社会ではそんなことはなかったものと断定できる。大政委任論のような特定の史観を信じすぎであろう。
現代世界について「地球規模での戦国乱世」と評価しているアカデミシャンをみかけた。
近世社会のことを理解できていない近代史家は未だに多く、唖然とさせられる投稿に接することもまた多い(一方で、私が近代史の機微に通じていない、ということもまた大いにありそうではあるのだが)。
小説の登場人物が福島県内でシャブリを開けて飲んでいようが特段なんとも思わないが、東京ステーションホテルにて江藤淳を前にシャブリをオーダーする蓮實重彦については、一読した当時ムムとはなった。https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000327564