近世日本が「連邦制」だとすると(そういう学説がある)、もはや当時の「首都」「首府」を云々する意味は皆目無くなるのだが、一体そこらへんはどう考えられているのだろうか。
SNS上にて、JSPS通知のスクリーンショットを投稿しているかたの多いことといったら… ちょっと自分には真似できない。
但馬に「たんば」とルビが振ってある国文学者の本があった。加齢による校正漏れでもあろうか。
ある高名な論者の見解として、《生成AIが普及するとはつまり真実と嘘が入り混じる世界になるということだけど、人類はそもそも長いあいだそういう世界で生きてきた。ついこの間まで写真も録音もなかった。みな記憶で話していた。それでも人類はきちんと秩序を作ってきたわけで、そんなに恐怖を覚えることではないと思う。写真や録音など「エビデンス」を出せば真実が確定する、というこの数十年技術が未熟なために逆に強くなっていた単純な思い込みが失効するだけの話》、なのだという。
この論者が実に歴史を苦手としているのが如実であるが、文献はおしなべて「記憶」に含まれる、エクリチュールとは「エビデンス」に非ず、「記憶」の一環なのであるという立場だと解せば、まずは一貫している。しかし現実に歴史はそのようなものではないし、現行の法制だってそうはなっていない(仮にもそうであれば大混乱に陥る)。
哲学者ジャック・デリダであっても「アルシーヴ」について思考し、「出来事」「日付」の問題について問うていたのである。歴史に興味を失うとはこのような事態かと、改めて実感されるところがある。
https://daiyoshiwara2024.jp/20240208.pdf ☜「本展のテーマである「吉原」という場所は、江戸時代に幕府公認のもとで作られました。この空間はそもそも芸能の空間でしたが、売買春が行われていたことは事実です」。【大吉原展】の主催者説明によると、冒頭からこんな謬論ではじまっているが、そもそも新吉原の町制機構それ自体を遊女屋仲間が担っていたという社会構造すら、念頭に置かれていない。徹頭徹尾、近世江戸の社会的実態に対する関心がないのではないかと疑われる水準である。
ジョン・ライクマンの編集したフーコーの『ザ・ジャパン・レクチャーズ』(ラウトレッジ、2024)に目を通すと、その末尾に収載された「日本のフーコー 蓮實重彦とのインタヴュー」の内容からは、『群像』最新号掲載の「日本語版」では相当に増補されている、ということが理解できる。英文では12の質問に蓮實が答えた体裁になっており、「日本語版」ではメールでの十個の質問に蓮實が返信していることになっていて、分量も大幅に長大な内容をみせる。同誌ではこの内容に「異同がある」とも注記されているが、当然にも両版の違いはたんなる「異同」の域をこえている。こうなるとオリジナルに相当する文面は何であるのか、一読しただけで判断することは難しい。こういうやり方が蓮實という批評家の、読者を困らせるところである。
江戸時代、新吉原遊廓についての歴史学での成果を挙示しておく(おもに都市史とジェンダー史関連)
まず刊行書籍から。
横山百合子『江戸東京の明治維新』
国立歴史民俗博物館監修『性差の日本史』
高埜利彦編『近世史講義』
長谷川貴彦編『エゴ・ドキュメントの歴史学』
『みる・よむ・あるく東京の歴史』5
佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会』
吉田伸之『身分的周縁と社会=文化構造』
塚田孝編『都市の周縁に生きる』
塚田孝『身分制社会と市民社会』