金沢や仙台、萩に鹿児島、松前や対馬府中といった地方城下町群をそれぞれ「首都」と呼ぶとしたら、大変に違和感がある。

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近世日本が「連邦制」だとすると(そういう学説がある)、もはや当時の「首都」「首府」を云々する意味は皆目無くなるのだが、一体そこらへんはどう考えられているのだろうか。

今日たいていは「世のため人のため」に研究をやっている、という面があるものだろうと思っている(自分はそう)。ひたすら私益のための研究など、ふつうにはできるものではない筈だが、しかし、「悪魔の」研究もあるだろうとは言えるしな…

やはりどうしたって闘争は「必要」である。

書店で書棚に自著が「並んで」いるところを撮りX上にアップしている先生がいたのだが、この撮影公開行為は果たして当の書店側からの許諾を予め得ているのか、疑問なしとしない。

微細な戦史研究みたいな感覚で明治維新史を手掛けようとするひとが、どうもいるような。ほら見ろ旧説の説明は間違いがあるぞと。そうした間違いの指摘はいいとして、それで構図の全体がどう変わるのか、そちらはよく看取できない。

博物館の指定管理制度、なんか一個ぐらい長所があったりするのか。

世に通行するところの「解像度が高まる」とは、果たして何の謂であるか。

以前の遊廓研究では、「上級の」遊女と対比させて「下級の」遊女たちなどと普通に表記されていて、別に問題視もされなかった状態が長く続いていた。近世当時での遊女のランキング扱いをそのまま踏襲して、研究者のがわも叙述していたのである。

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おおむね20世紀末に、日本近世史研究の領域では都市社会史分析が飛躍的な進展をみた。文献史学を中心としたそこでの成果が、文化論や芸能論、文学研究の世界ではさほど導入されなかったという事態があったのではないか、と愚考する。

不採択の申請書面を投稿しているひとまでいる。うっ…

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SNS上にて、JSPS通知のスクリーンショットを投稿しているかたの多いことといったら… ちょっと自分には真似できない。

同書では「解文」を「げもん」と読んでいる。「申文」を「もうしぶみ」とよむならば、解文は「げぶみ」と重箱読みした方が馴染むように思ってきたのだが、文学畑では違うのだろうか。

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但馬に「たんば」とルビが振ってある国文学者の本があった。加齢による校正漏れでもあろうか。

ある高名な論者の見解として、《生成AIが普及するとはつまり真実と嘘が入り混じる世界になるということだけど、人類はそもそも長いあいだそういう世界で生きてきた。ついこの間まで写真も録音もなかった。みな記憶で話していた。それでも人類はきちんと秩序を作ってきたわけで、そんなに恐怖を覚えることではないと思う。写真や録音など「エビデンス」を出せば真実が確定する、というこの数十年技術が未熟なために逆に強くなっていた単純な思い込みが失効するだけの話》、なのだという。

この論者が実に歴史を苦手としているのが如実であるが、文献はおしなべて「記憶」に含まれる、エクリチュールとは「エビデンス」に非ず、「記憶」の一環なのであるという立場だと解せば、まずは一貫している。しかし現実に歴史はそのようなものではないし、現行の法制だってそうはなっていない(仮にもそうであれば大混乱に陥る)。

哲学者ジャック・デリダであっても「アルシーヴ」について思考し、「出来事」「日付」の問題について問うていたのである。歴史に興味を失うとはこのような事態かと、改めて実感されるところがある。

daiyoshiwara2024.jp/20240208.p ☜「本展のテーマである「吉原」という場所は、江戸時代に幕府公認のもとで作られました。この空間はそもそも芸能の空間でしたが、売買春が行われていたことは事実です」。【大吉原展】の主催者説明によると、冒頭からこんな謬論ではじまっているが、そもそも新吉原の町制機構それ自体を遊女屋仲間が担っていたという社会構造すら、念頭に置かれていない。徹頭徹尾、近世江戸の社会的実態に対する関心がないのではないかと疑われる水準である。

ジョン・ライクマンの編集したフーコーの『ザ・ジャパン・レクチャーズ』(ラウトレッジ、2024)に目を通すと、その末尾に収載された「日本のフーコー 蓮實重彦とのインタヴュー」の内容からは、『群像』最新号掲載の「日本語版」では相当に増補されている、ということが理解できる。英文では12の質問に蓮實が答えた体裁になっており、「日本語版」ではメールでの十個の質問に蓮實が返信していることになっていて、分量も大幅に長大な内容をみせる。同誌ではこの内容に「異同がある」とも注記されているが、当然にも両版の違いはたんなる「異同」の域をこえている。こうなるとオリジナルに相当する文面は何であるのか、一読しただけで判断することは難しい。こういうやり方が蓮實という批評家の、読者を困らせるところである。

こうした研究が出揃う以前には、文化史本位であったところの西山松之助『くるわ』であるとか、石井良助『吉原』とかに依拠して論じられていた段階があったと思しい。今春に企画されている《大吉原展》というのは、こうした昔ながらの議論の系譜を引いているのではなかろうか。

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江戸時代、新吉原遊廓についての歴史学での成果を挙示しておく(おもに都市史とジェンダー史関連)
まず刊行書籍から。

横山百合子『江戸東京の明治維新』
国立歴史民俗博物館監修『性差の日本史』
高埜利彦編『近世史講義』
長谷川貴彦編『エゴ・ドキュメントの歴史学』
『みる・よむ・あるく東京の歴史』5
佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会』
吉田伸之『身分的周縁と社会=文化構造』
塚田孝編『都市の周縁に生きる』
塚田孝『身分制社会と市民社会』

Foucaultism(e) とは、いったい何の謂か。皆目わからない。そもそもフーコーの議論とは関係ないのではないか。

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