友人からおすすめされ中で4日目

【はじめての繭期2023 SUMMER】第四夜:『COCOON』月の翳り(2019年上演) youtu.be/clVdo8M7Usw

血の継承よりも、事物や思いの継承の方が好き、と感じたのはいつからだったか。
この作品には大きな影響を受けたと思う。

「女の人はそれは力のある魔女だったから、十五歳のとき、しきたりにのっとって傷を負わされた。村の長が魔女を村のために働かせようとして、右の腿の骨を砕いたのだった。魔女は長を決して許さなかった。
(中略)
でも、知識というものは、かならず誰かに伝えなければならない。だから魔女は、自分の魔法を伝えるのにふさわしい相手を求めて、何百年、何千年先まで探したのだ。
そして見つけたのが、私だった。」
(徳間書店「花の魔法、白のドラゴン」(2004) D・W・ジョーンズ 田中薫子訳 p.148)

同作品内に出てくる「世襲魔女制度」とは、まるっきり対極に位置するようなこと。

世襲制度が持つ、ある人間の知識や技術や経験を、その血を分けた子供にしか受け継がせないことの退屈さ。また、残酷さ。
そうではなくて、資格さえ持ち得れば誰だって構わない……もとは縁もゆかりもなかったような者にでも、自分の性質と相性がよく、波長さえ合えば渡すことができる、という美しい夢。
時代をこえて受け継がれていく「何か」への夢。

過去に作者、市川春子氏のインタビュー内
konomanga.jp/interview/8866-2
でも語られた
「永遠に復活の可能性がある状態はつらそう」
「死なないので、諦めることができない」
要素が本編でも相当深い味わいになっている……

例えば、0.0001%程度の可能性を前にして「これは無謀だ」と思っても、挑戦をしなければ「やらなかったじゃん」と周囲に容赦なく責められる残酷さとか。
そこで無謀だと判断して退ける理性よりも、とにかく実行しろという暗黙の圧力みたいなもの(本人の意志よりも強い)が世界の側にあって、それなのに挑戦したことで著しく傷つけば、今度は「無謀なことは分かっていたでしょ」とまた責められる理不尽。

そういうものの描写があまりにも巧みで、感心する。

(URLがうまく添付できなかったので再投稿しました)

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終盤、フォスフォフィライトが 

「自分は『どこから』間違えたのか」
「一体『どうすれば』よかったのか」

と、己に疑問を抱き、思考の中で選択の分岐を一つ前、また一つ前……と遡った先で浮かび上がってくる「はじめから存在しない方が良かったかも」の苦しさは結構たまらないものがあった。
つらいけれど、つらければつらいほどに。

こういう「じゃあ結局どうすれば良かったんですか」に対するようなユークレースの言葉
「長い時間をかければ難しい問題も乗り越えられる」
「皆が満足する答えが見つかるはず」など、これらが口にされたのにも圧倒的な空虚さが滲み出ている。
結局、そんなものは(少なくとも現時点での作中には)無かった、と片される悦楽。
長い時間をかけても皆が満足する答えなど見つからなかった、という結果がある。

もちろん、それが作品の中で最終的にどう扱われるのかはまだ分からない。

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市川春子「宝石の国」の描写全般が好きな理由のひとつ、個人的に「好きな(推している?)キャラクターの幸せが第一、それ以外は認められない」のような考え方と自分の基本姿勢が相容れない(作品の筋書きをはじめ、各要素がまず創作物として完成度が高かったり、面白かったり、何か新しい考えや感情を喚起するものであってほしいと願っている)のに加えて、読者がキャラクターに対して無思慮に投げつける「じゃあ〇〇すればよかったのに」「なんであの時〇〇しなかったの?」が苦手なことが挙げられるかもしれない。

この作品に限らず、永遠にも近い長き歳月を生きてきたキャラクターが培ってきたものをないがしろにするのには抵抗がある、みたいな感覚。
私の側は読者として彼らを「俯瞰」できるけれど、同じ時間を生きているわけではないから、皆の内実も実際に起こっていたことの意味の大きさも、理解することは難しい。

まあこれは長命種好きの戯言だし、あまり上手に言えないのだけれど、色々な意味で「作中の世界もそこに存在している登場人物も『尊重』されてほしい」と個人的には思っているのだな……。

プレイした感想はブログにまとめ
あと、昭和後期関連の簡易年表とか

プロタンとマダムのコンビが好きなのとはまた別枠で、灯野あやめちゃんに異様なシンパシーを覚えてしまったのは彼女の境遇のせい。
置かれている状況も含めて、気持ちが理解できるなぁ、と思える部分が多かった。

【昭和後期×オカルトブームADV「パラノマサイト FILE23 本所七不思議」感想】
chinorandom.com/entry/2023/03/

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千野 さんがブースト

#小説に登場する飲み物

・緑色のミルクセーキ
・甘いコーヒー
・氷入りのオレンジエード

ダイアナ・W・ジョーンズ「九年目の魔法(Fire and Hemlock)」(邦訳:浅羽莢子)より #DWJ作品

物語の中には単においしそうなだけでなく、妙に気になる、その状況も含めて印象的に描かれた食べ物や飲み物が登場する。
とりわけ「九年目の魔法」では序盤のオレンジエードが胸に残った。
果汁を薄めて、さらに甘くするなどして味を調えた飲み物。

日本では昭和期にサントリー社が「オレンジエード」を販売していたこともあり、懐かしい響きだと感じる人もいるだろう。

緑のミルクセーキと同じく、詳しい味の説明はなされていない……のも当然で、主人公ポーリィはこのとき、オレンジエードを一切口にしていない。

それでも関連する描写を読んだだけで、グラスに満ちた、透明感のある冷たいオレンジエードを構成する、果汁の舌触りに思いを馳せないわけにはいかない。
一切れ添えられた本物のオレンジにも。
氷の入ったグラスを、思わず唇に近づけたくなってしまう。

#読書
chinorandom.com/entry/2022/10/

橋姫をプレイした全体的な感想(後日談も含む)はブログにまとめています。

各シナリオで明確にテーマが異なるところや、それぞれの背景や着想元に近代の文学作品が用いられているところ、雰囲気も好みに合っていて、友達に薦められ手を伸ばしたのは正解だった。
ネタバレにならない範囲の台詞でこよなく愛しているのは、玉森の「なぜ、私ばかりがこんな目にぃ!!!」。

主人公がこれを言い放つの、あまりにも良すぎる。

【大正ミステリーBLG「古書店街の橋姫」感想メモ】
chinorandom.com/entry/2022/04/

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パラノマのマダムとプロタンが最後に喋っているだけの妄想小説。
お茶を飲んで駄菓子とか食べている。

※基本的に真相END後の様子を想定していますが、他ルートの結末を読み思い浮かべた要素なども色々入っており、ごっちゃ。
とりあえず単なる与太妄想としてお楽しみください。
春恵&利飛太コンビのこと考えるの楽しかったー。

【火種の要らぬ煙草 - pixiv】
pixiv.net/novel/show.php?id=19

誇り高き魔術師サイベルと、人を信じられなくなった王様ドリード 

私は、この2人の共通点は「愛する資質(capability to love)」にこそありそうだと感じている。
ミスランがサイベルに告げた台詞も脳裏に浮かぶ。

‘You are capable of love. It is a dangerous quality.’
(McKillip, Patricia A.《The Forgotten Beasts of Eld (FANTASY MASTERWORKS)》p.87 Orion. Kindle版)

実のところこれはドリードにも当てはまる要素だった。

愛する資質を持つ、というのは即ち「傷つく資質」を持つということでもあり、その点がサイベルとドリードに共通しているのに結構ぐっとくる。

かつての王妃リアンナへ想いを捧げた過去のように、相手に自分の感情が受け入れられなければ「悲しい」と思う。そして、彼女が自分ではなくサール領のノレルを愛していると悟れば「苦しい」とも思う。
ドリードが作中でああなったのは、愛を抱ける可塑性の心を持っていたからこそ……。

それこそが、彼を再起不能なまでに傷つけた。

chinorandom.com/entry/2023/07/

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千野 さんがブースト

「草枕」を再読していて以下のあたりに差し掛かったとき、滅茶苦茶に既視感をおぼえてアンデルセンの方をガン見してしまった。

“詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。”
(角川文庫「草枕」(2021) 夏目漱石 p.24)

まあ普遍的かつ当然の事柄ではあるのだけれど、やはり根本にある姿勢、結構似ているな……と、思う。

2年前に岩波文庫「完訳 アンデルセン童話集」(大畑末吉訳)のすべてを読み、以来、少しずつ関連書籍も手に取ってきた結果、彼に対して抱いていた印象のうち大きく変化した部分がある。
以前は、

「(彼の生涯を考えると)生い立ちや環境からまず苦労していて、でも確かに他では得難い家族の幸福があり、抱いた願望は行動で実現させてきた人だと感じる。
けれどそれは自分のことだからで、他人との関係は努力ではどうにもできず、『本当に欲しかったものは手に入らなかった』のかもしれない」

のように考えていた。
けれど実際は、

「もしかしたら彼は『本当に欲しかったものだけ』をしっかり手に入れた人、なんじゃないか」

と感じるようになった。

# #読書

エルド山の奥に住むサイベルが用いる魔法(call) あるいは呪文というもの全般の性質について 

「魔法」にも種類がある。
けれど、元となる理念は「何らかの方法で『世界』に働きかけるもの」と整理してみれば、呼ぶ側の存在と答える側の存在とが確かに根本に横たわっている、と感じる。

例えば、雨を降らせたい魔術師が呪文を発したり、術を発動したりする。

世界の方が喜んでも嫌々であっても、「応答」さえすれば雨は降る。
それに値しないと判断されるか、術者の意思が届かなければ、降らない。

雨を降らすのは世界であり、魔術師ではない、ということ。

魔法を使う側が術を仕掛けた結果、実際に何かが起こったとするなら、それは魔術師の要請(call)に対して世界が応答(answer)したことの証左になるのだなぁ。
ゆえに魔法は「私の声に応えるものはあるか」と、世界に対して問う試みなのだものね。
命じるようにも、懇願するようにも。

たとえ発されたその「声」が、山を動かしたり、川をせき止めたりすることが不可能であったとしても。
誰かひとりでもそれに耳を傾け、響きに心を砕く存在がいたとするならば、魔法は働いたということになるんだろう。
呼ぶ者がいて、答えを返すものがいる、図式の中に。

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来年で原著の出版から50年を迎える作品、パトリシア・A・マキリップの《The Forgotten Beasts of Eld》を読んだ。

ハヤカワ文庫FTより発刊された日本語訳《妖女サイベルの呼び声》が絶版となっていたので、英語版を電子で。
タイトルは安直に訳すると、「エルドの忘れられた獣たち」……に、なるだろうか。その通り、作中にはとても魅力的な、不思議な魔力と伝説を背景に持った賢い幻獣たちが登場するのだった。

第一回世界幻想文学大賞の、大賞受賞作。

山奥で魔術の研鑽をしながら暮らしていたサイベルは、複雑な事情を抱える赤子を託された、とても強い力を持つ魔術師だった。
曾祖父ヒールド、祖父ミク、そして父オガムから、血や知識、蔵書、不思議な幻獣たちを受け継ぐ者。彼女は彼らの「名を掌握する」ことで、思念により存在を縛っている。
そういう魔法を使える。

ある日、伝説の鳥〈ライラレン〉を召喚しようと世界に呼び声を投げかけていた最中、サイベルの邪魔をするものがあった。
エルドウォルド王国内のサール領から来た、コーレンという騎士の若者。彼は腕に抱えた赤子(タムローン)がサイベルの遠縁なのだと告げ、彼を育ててはくれないだろうか、と交渉する……。

《古書店街の橋姫》の玉森。怠惰で自己中心的かつ見栄っ張り、もっと直球になると「クズ系」とか形容される主人公だけど、全編を通してとても共感できたし好きになれたタイプのキャラクター。可愛くないところが可愛い、と思う。下手にまっすぐなだけの人物より信頼できる部分が結構ある。 

孤独を受け入れがたく、友情という言葉づらや「昔みたいにみんなで」の概念にこだわって奔走したり、相手の死そのものではなく、相手が自分を選ばないことに対して涙したりするのとか……私の側にいてくれれば誰でもよかった、でも、しかし……と内心で零す場面もいい!

友人を喪うこと自体よりも、別の作家への嫉妬が先に立つときの心情が好き。

そして不正規連隊(ホームズが元ネタ)の子供たちに羨望を抱いて、真の友情が何なのかよくわからないまま真の友情を求め、本当に自分の親友ならこうしてくれ、親友なのにどうしてこうしてくれないんだ、と一方的に周囲に求める痛々しい姿、あの感じはとてもわかる。

「……わかっている、私たちは大人だ。
(中略)
だがそんなのを取っ払ってこの友情を証明して欲しいと思うのは、おかしいことだろうか。」
《古書店街の橋姫》本編より

この「友情を証明」という言葉に込められた痛々しさが本当にたまらない。

《帰山》の尚隆が「俺は碁が弱くてな」と自称する場面について 

振り返ると、それ自体が「彼が戦を好んでいない」ことの比喩に思える時がある。

囲碁は、厳密には単純な陣取り合戦……というわけでもないのだけれど、確かに領地の広さを競う側面は持っている遊戯で。
瀬戸内にいた頃から、戦をしなくて済むならそれに越したことはないと尚隆は考えていた。わざわざ領地を広げなくても民を豊かにする方法を模索しただろう。
外から敵が攻めてこない限り。

他国を侵略して領地を広げ、さらなる力を得て自国を豊かにする。
この考えが根本から成立しない(なぜなら「覿面の罪」になる)常世が彼の性格向きなのは、本人には相当に皮肉なことかもしれないが。
彼がまだ王でなく人間であった頃に本来望んでいたこと(自分の民を守り切る)は他ならぬ戦によって叶えられず、それでも皆に殉じて海に沈むのではなく、新しい国が欲しいと願うのを止められずに導かれて行った先が「戦(内乱以外)を起こせない世界」であったこと。
色々と思うところが際限なく出てくる。

何にせよ、その全てが故郷という異国を忘れないよすがになる点で、本人としては当然の報いだと考えているかもしれない部分がなんというか堪らない。
「生き恥晒して落ち延びた」と実際口にしている人だから、尚更。

景麒と舒覚さん(字・恩幸)の関係について再度考えたくて、手掛かりになればと十二国記のドラマCD「夢三章」を再聴した。かなり古い。
ここに『姉妹王』という、舒栄(花麗)も含めた予王登極にまつわる一幕が収録されている。

普段、原作本文以外は参照しない方針でいろいろ受け止めてはいるのだけれど、小野不由美氏も当時、監修という形で内容には目を通されていたと思うので、そのあたりには信頼を置きつつ……。

なんというか、舒覚さんが妹との対比で「趣味は多くなく、化粧の香りが強い部屋や、派手な服装に関しては別に好みではない」ことを諸々の描写から示され、そういう部分で確かな「陽子との類似点」をお出しされるのは結構くるものがあるなと感じた。

もちろん趣味嗜好は人それぞれで、そこに善し悪しなど一切関係ないのだが、王の資質として考えた時に「奢侈に溺れる傾向がない」というのは一つの強みというか美徳であったと思う。
当時、そういったところにも天命の下った要因があったのではないかと思わずにはいられない。舒覚さんにも陽子にも共通している、真面目な性格、みたいなもの。

"玉座に就いた当初、実直に責務を果たそうとした予王は、……"
(新潮文庫「風の万里 黎明の空(上)十二国記 (2020)」小野不由美 p.180)

彼女らの実直さ。

センシティブ投稿テスト 

隠された文面がここに表示される


こういう、どちらかというと落ち着いた感じで日頃考えた事柄を書き残すアカウントをmstdn.jpの方には持っているのですが……>RT

どうしても色々な物語の登場人物とか、特定の関係などについて言及したりまとめたりしたいオタクの自我が脳内でうるさいので、そのための場所もfedibirdに持っておくことにした次第です。
Twitterに関してはいつまで普通に利用できるのか分かりませんが、話題の方向性は不特定で、マストドンにあるふたつのアカウントの混交みたいに雑多になっております。

所謂ふつうの随想録や旅行記などは個人ブログの方で更新しているので、もしよかったらそちらも覗いてみて下さい。

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