市川春子「宝石の国」の描写全般が好きな理由のひとつ、個人的に「好きな(推している?)キャラクターの幸せが第一、それ以外は認められない」のような考え方と自分の基本姿勢が相容れない(作品の筋書きをはじめ、各要素がまず創作物として完成度が高かったり、面白かったり、何か新しい考えや感情を喚起するものであってほしいと願っている)のに加えて、読者がキャラクターに対して無思慮に投げつける「じゃあ〇〇すればよかったのに」「なんであの時〇〇しなかったの?」が苦手なことが挙げられるかもしれない。
この作品に限らず、永遠にも近い長き歳月を生きてきたキャラクターが培ってきたものをないがしろにするのには抵抗がある、みたいな感覚。
私の側は読者として彼らを「俯瞰」できるけれど、同じ時間を生きているわけではないから、皆の内実も実際に起こっていたことの意味の大きさも、理解することは難しい。
まあこれは長命種好きの戯言だし、あまり上手に言えないのだけれど、色々な意味で「作中の世界もそこに存在している登場人物も『尊重』されてほしい」と個人的には思っているのだな……。
過去に作者、市川春子氏のインタビュー内
https://konomanga.jp/interview/8866-2
でも語られた
「永遠に復活の可能性がある状態はつらそう」
「死なないので、諦めることができない」
要素が本編でも相当深い味わいになっている……
例えば、0.0001%程度の可能性を前にして「これは無謀だ」と思っても、挑戦をしなければ「やらなかったじゃん」と周囲に容赦なく責められる残酷さとか。
そこで無謀だと判断して退ける理性よりも、とにかく実行しろという暗黙の圧力みたいなもの(本人の意志よりも強い)が世界の側にあって、それなのに挑戦したことで著しく傷つけば、今度は「無謀なことは分かっていたでしょ」とまた責められる理不尽。
そういうものの描写があまりにも巧みで、感心する。
(URLがうまく添付できなかったので再投稿しました)
終盤、フォスフォフィライトが
「自分は『どこから』間違えたのか」
「一体『どうすれば』よかったのか」
と、己に疑問を抱き、思考の中で選択の分岐を一つ前、また一つ前……と遡った先で浮かび上がってくる「はじめから存在しない方が良かったかも」の苦しさは結構たまらないものがあった。
つらいけれど、つらければつらいほどに。
こういう「じゃあ結局どうすれば良かったんですか」に対するようなユークレースの言葉
「長い時間をかければ難しい問題も乗り越えられる」
「皆が満足する答えが見つかるはず」など、これらが口にされたのにも圧倒的な空虚さが滲み出ている。
結局、そんなものは(少なくとも現時点での作中には)無かった、と片される悦楽。
長い時間をかけても皆が満足する答えなど見つからなかった、という結果がある。
もちろん、それが作品の中で最終的にどう扱われるのかはまだ分からない。
#宝石の国 #漫画