エルド山の奥に住むサイベルが用いる魔法(call) あるいは呪文というもの全般の性質について
「魔法」にも種類がある。
けれど、元となる理念は「何らかの方法で『世界』に働きかけるもの」と整理してみれば、呼ぶ側の存在と答える側の存在とが確かに根本に横たわっている、と感じる。
例えば、雨を降らせたい魔術師が呪文を発したり、術を発動したりする。
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世界の方が喜んでも嫌々であっても、「応答」さえすれば雨は降る。
それに値しないと判断されるか、術者の意思が届かなければ、降らない。
雨を降らすのは世界であり、魔術師ではない、ということ。
魔法を使う側が術を仕掛けた結果、実際に何かが起こったとするなら、それは魔術師の要請(call)に対して世界が応答(answer)したことの証左になるのだなぁ。
ゆえに魔法は「私の声に応えるものはあるか」と、世界に対して問う試みなのだものね。
命じるようにも、懇願するようにも。
たとえ発されたその「声」が、山を動かしたり、川をせき止めたりすることが不可能であったとしても。
誰かひとりでもそれに耳を傾け、響きに心を砕く存在がいたとするならば、魔法は働いたということになるんだろう。
呼ぶ者がいて、答えを返すものがいる、図式の中に。