外の世界との適切なつながり方については模索し続けてくしかないな。

ここ1〜2年、セクマイ界隈(?)で築いた人間関係をほぼリセットしてしまった。パートナーつくらない前提の人間としては居心地の悪さを覚えることが多い空間だったが、お酒でそれを誤魔化してたからまあやっと自分に正直になれたかな。それでもないよりはあった方がいいと一時期は思ってたんだよね、そういうコミュニティも。深くは交わらず酒を楽しく飲むだけの関係に救われるところもあった。今はまたちょっと考えが変わったけど。

この界隈ではモヤモヤすることがしばしばあって、AセクでもAロマでもないけどパートナーつくる気はないというと「遊び人なのか?」って思われがちだけど別に遊び人でもなくて、単に一人の方が楽ということなんだよね。この辺の事情をあーだこーだ言われるとめんどくさい。

ほとんど私的なコミュニケーションをせずに(仕事で人とやり取りするくらい)ぼんやり生活に追われてたら、アイデンティティの危機を感じてる。飲み込まれそう、何にとは言えないけど。何か自分がべたーっと溶けて消え去りそうな感じ……。

久しぶりに文章書きたい気持ちが高まってきてるけど体がついていかない。週に5日の労働をこなすだけでもギリギリだから、余暇に机に向かう体力が残ってない。毎日ウォーキングと筋トレして体を丈夫にしたいけどうつがやってくると1日20時間くらい寝ちゃう。困ってる。

月曜日から一週間がんばって手続きの書類をもろもろ集める。大丈夫できる。

爪落として携帯のキャリア変えて、洗濯して取り込んでたたんで、今夕飯と来週の分の作り置きこさえてる。ちょっとずつやる。

友達のデザインしてくれた表紙がイメージ以上っていうか期待以上っていうか、すっごく自分の感情的な動揺みたいなものとしっくりくるもので、この友達とは中学一年生のころから付かず離れずでやってきたけど、このまましぬまでそんな感じでやっていきたいなあと思った。本当にありがとう!

本人が見てるところでは恥ずかしくてとてもじゃないが言えん!!

Twitterで出す出す詐欺をしていた賭けZINE(「あなたに賭けたかった」ZINE)がやっとできた!

友達が版組、デザイン全てやってくれて、別の友達は寄稿してくれて(寄稿してくれた友達のうち1人とは絶縁したけど笑)、なんとかかたちにできました。

とにかく毎日楽しくて、でも確実に自分は壊れかけていたまさに怒涛のようなあの日々を思い返しながら、今は道を違えてしまったけれどわたしが勝手に愛していたひとたちへのお手紙的な短文をまとめたZINEになった……ような気がする!

声かけてくれてた友達と寄稿してくれた友達には渡すのでちょっと待っててね!3~4部手元にあまりそうなので、もらってくれる方がいたらお声がけいただけたらうれしいです。

頑張れなくても何もできなくても自分を許せる自分でありたいけど、難しいもんだね~

生きているだけでお金はかかるし、そうでなくても恐らく持病の影響でめちゃめちゃ買い物に依存している上に奨学金も借りていて借金で月給が消えるような日々を送っていて、だから働かないわけにはいかないんだけど、仕事をやめたらこんなくだらない葛藤からは解放されるだろうし、もう少しマシなわたしになれると思う。

仕事はしんどいな、本当に。自分ができること、やってきたことは当たり前じゃないと理解しようとはしているつもりでも、「甘えんじゃねえ」という怒りを抑えられなくなってしまうことがあるよ。

そういえばそんなタイトルのBLをルネッサンス吉田が描いていたな。あれ好きだった。ルネッサンス吉田最近も描いてるのかな、初期作品しか好きじゃなかったけどそもそも生きてるのかな。生きててほしいな、いつしんでもおかしくなさそうな人だった。

わたしは最初に就職した職場で「女性職員なら○○するべき」みたいなことを普通にいわれたし、職場にリュック背負っていったりスニーカーで行ったりすることも許されなかったし、次の職場では理不尽に怒鳴られたことも今思えばハラスメントだと思えるような扱いを受けたこともあって、だいぶ寄り道はしたけどそのなかでどうにかこうにか生き延びてきたので、自分が味わってきたような苦しさを知らずに生きてこられた若い人たちをどこかで羨ましいと思っているし、許せないとも思っている。でもそれはわたしの良くないところで、自分が苦しい目にあった原因をたどれば社会の仕組みが良くないからってことになるし、社会が少しでもマシになってわたしのような思いをする人がいなくなった方が絶対に良いと分かってはいる。

ただその一方で割りきれなさもあって、「わたしはこんなに辛い目にあってきたのに」という卑しい気持ちは確実に自分をむしばんでいる。そしてそういう感情にとらわれている人はやっぱり同世代に少なからずいる、ように見受けられる。少なくともわたしの観測範囲では。

頑張らなくても生きていたいし、生きていける世の中であってほしいけど、頑張らないと生きてこれなかった自分が、ときどきちょっと悲鳴を上げている。

きっかけは「女じゃ零戦に乗れないとかありえない」というアホくさいものだったけど、何はともあれそういう違和感がきっかけでそれなりにフェミニズムを勉強したり、坪内逍遙とか二葉亭四迷にまで遡ってきちんと近代文学(および近代史)をやろうと意気込んでいたりもしたので、自分なりにものごとを多少は考えられるようになった。でもそれってたまたまわたしが高等教育を受けられる環境にいたからで、「女は愛嬌さえあればいい」みたいな思想を持っている親のもとに生まれていたらわたしは自分のジェンダーやセクシュアリティに疑問を抱くこともなく男と結婚していたかもしれないし、中国や韓国の悪口をSNSに書き込んでいたかもしれないとおもう。

つまり何が言いたいかというと、わたしと同世代やそれより上の世代は、関心を持つきっかけや自ら学ぼうとする意思、そしてそれを実現できる環境の全てがそろっていなければ、自分の思想とか考えなんて持てなかったんじゃないか、ということだ。

わかりやすい例なのでつい取り上げてしまうけど、わたしやわたしと同世代の人間にはオウム真理教に代表されるような「これを信じておけばOK」という宗教や思想やカルチャーがなかった、ような気がする。オウムもそうだし、一昔前の学生運動もそうだけど、圧倒的な何か、没入できる何かが特になく、でも少し上の世代になるとそれこそオウムが世の中を席捲するさまを見ていたり、ちゃんと思春期にリアルタイムでエヴァを追っていたりする。一方少し下の世代になるともう少しフラットな人達が多くて、圧倒的な何かに依存することなく興味関心やエネルギーをいろいろなものに分散させながら、努力や根性、信仰みたいなものに頼らず生きていける環境が用意されていたのではないかと思う。

理不尽に怒鳴られたこともあるし、上履きに画鋲が入っていたこともあるし、ブスと笑われたこともあるし、男にモテないから「レズ」になったんだろと茶化されたこともあるけど、そういうのってもうなくなったんだな、いやもっと早くなくなるべきだったんだけど、そういう空気のなかで大人になった上の世代と、こういうことを言ったら「炎上」すると理解している(「ポリコレ」への配慮を一定レベルでできる)下の世代のはざまで、なんだかどっち付かずに生きている。

最近友達と世代について話す機会が多く、今の若者はどうだとか中年になるとこれだから良くないとか、十把一絡げに語る問題点ではもちろんないんだけど、いくつのときに、どんな場所で、どういうできごとを見聞きしてきたのかは人格に大きな影響を与えるだろうなと思う。

たとえばわたしには地下鉄サリン事件の記憶もなく、阪神淡路大震災のこともよく覚えていない。当時はまだ幼稚園児だったので世の中がどんな風に動いているのかなんて分かるはずなかったけど、最初に衝撃を受けたのは9.11映像化を小学校に行く前に毎朝みていた「ズームイン!!朝!」で見たことで、そのときもやっぱり難しいことは分からなかったけど、何か大変なことが起きているのだと思った。アメリカがアフガニスタンと戦争をするらしいと聞いて、平成になっても戦争をやるのかとびっくりして調べてみたらわたしが生まれた年には湾岸戦争があったことを知る。

そのあといろいろあって戦争映画が大好きな軍国少女になってしまうものの、「女は零戦のパイロットになれない」という疎外感から世の中の仕組みに違和感を覚えはじめた。自分はちょっと特殊な例かもしれないけど、なんだか世の中が物騒な気配はこどものときからあって、逃亡中だったオウム真理教の幹部が逮捕されたというニュースも印象に残っている。

たぶん被害を受けた当人でさえそれが暴力だったとは気付いていなかったかもしれないし、今でもまだ気付いていない子もいるかもしれない。

どうしてこんな問題だらけの事務所の所属タレントを好きでい続けているのかというと、いや理由なんてなくただ好きでいることしかできないんだけど、彼らはわたし(たち、とは言えない)が生き抜いてきた最悪な社会のなかでも、最悪を最悪で煮詰めたような閉鎖的な集団のなかで活動をしていて、そんな彼らに自分をどこかで重ねているってところは正直にいってある。

にもかかわらずひとたびステージに立てば日頃の苦労や屈託なんて感じさせずに今この瞬間を全力で楽しもう、楽しませようと駆け回る彼らのことが愛おしくてたまらないのは、もはやわたしのなかではどうしたって誤魔化しようのない、隠しようのない痛切な感情。彼らのことを大切に思っているからこそ事務所にはもっと社内の環境を整えてほしいと強く思ったり、その一方で凄絶な権力関係の発生するホモソーシャルな空間のなかでもがき苦しみこぼれ落ちそうになっている男の子のことや、そのなかで難なく生き抜いていける男の子のことを「可愛い」と思ってしまったりもする。

こんなに社会がおかしくなければ、わたしはジャニオタやってなかったかもしんない。アホくさいたらればだけど。

かつて先代の社長から性的暴行を受けていた元所属タレントが顔と名前を出して訴えたにもかかわらず、事務所の声明はろくなものじゃなくて、まあどうせ取り合わないんだろうということは分かっていたものの、改めて目の当たりにするとげんなりした。

あの事務所の体質的な問題もあるけど、それとともに、あの事務所を公に批判できないメディアや企業側の問題でもあって、先代の社長が少年に性的暴行を加えていたことは東京地裁でも認められた事実なのに、それを大っぴらに報じることはタブーで、なぜならジャニーズ事務所にたてついて所属タレントを番組や広告で起用させてもらえなくなったら自社の売り上げに深刻な影響が出るからでしょう。

もうひとついうなら、同性間の性暴力が不可視化されている、あるいは軽視されていることも良くなくて、だって先代の社長が所属タレントにセクハラしてたことなんてみんな知ってる。みんな知ってるのに誰もあの事務所の体質を変えられなかったんだよ。売れるためならそれくらい仕方ないだろうねって。先代の社長はまるでそれが特別な愛情や親密さを伝えるための特別なことであるかのように未成年の男の子たちに性的な振る舞いを強要していて、でもそういうの乗り越えた子こそ売れてるんだろうねってみんなそれが暴力だって分かんない。

いつ働けなくなってもおかしくないのにこんなに借金をして無駄な買い物ばかりしてわたしの頭はどうかしている、もう死ぬしかない、みたいな考えでぐちゃぐちゃになっているときはマジで頭がどうかしているときなので、いったん医者からもらっている薬を飲みます。そうすると多少は気持ちが凪いでくることもある、けれども全然効果を感じられないこともあり、たとえば今日とか家で作業をしながら「わたしは內田百閒よりひどい金の借り方をしているのに內田百閒みたいな面白い文章なんて到底書けるはずがないから死ぬしかない」といった風に割と本気で思い詰めていたんだけど、働けなくなっても自己破産しても人生は続いていくし、人ってそう簡単にしねないんだよな、ヤケクソに薬飲んだって医者に胃のなか洗われて生きさせられてしまうし、かと思えば日々を慈しみ穏やかにささやかな生を楽しんでいた(楽しめていたはずの)人の命が突然不条理に奪われることもあってとてもそれはつらいことで、この頃ニュースでウィシュマさんの映像が流れるのを見るたびに絶対目をそらしてはいけないことなのに耐えがたくてテレビの電源を消してしまう。

なんか日記みたいに使おうと思ったけど意味のない文って永遠に書いちゃうし、わたしは日記を書くのがめちゃめちゃ下手なんだってこと忘れてたわ。

友達の書いた小説が最高すぎて久しぶりにガッツリ自分も創作したくなってきている、うまく説明できないけど痛切さとか生々しさが痛いほど伝わってきて「生きてる」って感じのする話。BLってこうでなくちゃ!!!

好きだったけど愛してるとかけしてけして言わないで、都会のすみでその日暮らしもそれはそれでよかったの……っていう某名曲の詞があるが、都会のすみっこで二人ぼっちなのに「愛してる」って絶対言いたくないし言われたくない、そういう二人がそれでもお互いを大切にしながら一緒にいたこと、最高じゃん……お友達の本の話からはそれてしまったけども……恋愛とセックスのアンハッピーセットを解体していくお話はとにかく良い。

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