最近はまた会ったことも通話したこともないし、お互いの住んでいる場所も知らないオタクと毎日おはようからおやすみまで言葉を交わしていて、そのオタクの存在にも助けられている。
別に会わなくても声をきく機会がなくてもこのままの関係が続けばいいなって思う。文字のやり取りしかしていなくても、返信の遅さで相手が疲れているなって気が付いたり、言葉の調子で何かいいことがあったのかなって悟ったり、文章でしか交流していないはずなのに、文章ではっきりと伝えられていないこともお互いになんとなく察することができる間柄になってきていて、親密さっていろいろなかたちがあるし、直接会ってお揃いのものいっぱい揃えてセックスするのが親密さの最上級のありようだとか、そんな風に信じているひとたちとは心を通わせられないと思う。
「自分が何者であるか分からない」という曖昧さのなかで生きることと、「自分は○○(何らかのマイノリティ)である」という確固たるアイデンティティを持って生きることのどちらがより大変か、答えなんて誰にも出せるわけないんだけど、自分はどこかで「はっきりとしたアイデンティティを持たずに生きている」ことに対して勝手に罪悪感を抱いていて、遅まきながらここ1年くらいの間にレズビアンコミュニティに顔を出すようになった。
でもそうしたらますます自分のことが分からなくなったし、全てのレズビアン(あるいはレズビアン以外の非ヘテロ女性)がそうだとは言わないけれど、シス性へのこだわりの強さ(界隈のボイフォビアやトランス女性への嫌悪感が激しすぎる)や恋愛ありきの交流の多さにうんざりすることも多くて、どのようなアイデンティティを持っている/持っていないにかかわらず、お互いの違いを尊重しながら対話できる友人のありがたさを身に染みて感じているところ。