ようやく今年初の書店に行けたので、ドラマも好評で楽しみにしていた、ボニー・ガルマス『化学の授業をはじめます。』を買ってこれた。
『桜庭一樹と読む 倉橋由美子』で初めて倉橋由美子作品を読み衝撃を受けたので、同じ「掌の読書会」シリーズの『柚木麻子と読む 林芙美子』も読んでみます。
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昨年末と今日買った本。
◆ボニー・ガルマス『化学の授業をはじめます。』(鈴木美朋 訳)
◆ジェイソン・レクーラック『奇妙な絵』(中谷友紀子 訳)
◆シオドラ・ゴス『メアリ・ジキルと囚われのシャーロック・ホームズ』(鈴木潤 訳)
◆西村紗知『女は見えない』
◆佐々涼子『夜明けを待つ』
◆飯田朔『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』
◆『掌の読書会 桜庭一樹と読む 倉橋由美子』
◆『掌の読書会 柚木麻子と読む 林芙美子』
『ハズビン・ホテルへようこそ』に登場するアセクシュアルのキャラクターを、「適切にやればカップリングを組んでもOKだよ」と二次創作を促すポストがめっちゃいいね・拡散されているのを見てしまったけど、最悪だ……
そりゃあ、アセクシュアル(性的惹かれが無い)の人やアロマンティック(恋愛的惹かれが無い)の人だって、それが性愛/恋愛ではなくとも他者との特別な関係性は築けるのだから、二次創作でもそのキャラクターの友愛や親密な関係性なら普通に描けば良いと思う。
でもそれが何故、「アセクシュアルだとしてもセックス出来る人もいるし、アロマンティックとは明言されてないから恋愛はできる、だからカップリング全然いけるよ!しよう!」って話になっちゃうの。何なんだ。
結局は恋愛/性愛ありきのカップリングにしたい願望としか感じられない。
Ace/Aroの表象はまだまだ足りないし、理解されてるとも思えないのに、こんなふうに消費だけされていくの見るの本当に苦痛だ……
荒木あかね『ちぎれた鎖と光の切れ端』
登場人物の容姿に過剰な言及がないのもすごく楽だった。
若い作家さんがこういう物語を書いているということがめっちゃ嬉しい。
男女が親しくしていたり共に暮らしていることを、恋愛/性愛関係だと他人から勝手に決めつけられる煩わしさや怒りの描写がしっかりあるのも嬉しかったので、続編が出るとしても彼らの関係性に恋愛は絡まないでほしいな。
すごく誠実なミステリだと思いましたが、事件そのものや展開はエグくて辛いので、誰にでもオススメ!かどうかは分からないのですが……。
それと九州地方に蔓延る男尊女卑については、偏見を再生産してしまうのでは……?という懸念も少しあるのだけど、「田舎だとバカにして、そこに住む人間を蔑ろにするな!」という旨の釘刺しはちゃんとありました。
荒木あかね『ちぎれた鎖と光の切れ端』
すごく真っ当で大事な視点とメッセージが詰まっていてビックリしました。最近読んだミステリの中で、屈指の真っ当さ。
この社会で寄り添って生きる、血縁によらない関係性を描いているのも良かった。何より、めちゃくちゃ良い女バディが生まれたのが嬉しい〜!続編希望です。
家族間や部活動や会社組織で生じる、さまざまな形の抑圧や所有意識やパワハラといった加害と、権力勾配に無自覚でいること。
そうした健全ではない関係性を理解するまでの心理が、複数の人物を通じていろいろな角度から描かれているのが良かった。
たとえ加害者が「愛情ゆえ」と本心から思っていたとしても、それは正しくないし、受け入れる必要などないということもハッキリと。
昨年最初の読書がモハメド・ムブガル=サールの『純粋な人間たち』だったので、今年の一冊目もサールにしようと決めていた(積んでいた『人類の深奥に秘められた記憶』)のだけど、地震以来気持ちが落ち着かなくて、なかなか読書ができず。
ただこんな状態でもミステリは何故かいけると気づき、昨年末の各誌ミステリランキングにランクインしていた積読本を中心に読んでいた。
読んだ中でも特に、荒木あかね『ちぎれた鎖と光の切れ端』が良かったです。
復讐の手段としての殺人、憎しみのぶつけかた、自ら裁き罰を与えることについて、それは間違っていると、様々な視点でもって繰り返し真正面から伝える物語がすごく誠実だった。
海外ドラマに「Nagasaki」を動詞として使った「潰す」という意味の台詞が出てきた、という内容のポストを見た。
これとは少し違うのですが、「ひどいこと」を表現するために「Fukushima」と言っている台詞も度々出てくるなと思った。福島や日本産の寿司を例えに出して、「ヤバイこと」というような意味合いになっているのも見る。
その台詞を言うキャラクターが差別的人物だと示すための意図かというと、そうとは思えないことも多いので、こういう台詞を聞くたびに悲しくなる。
こうした表現が出てきても日本の字幕にはたいてい反映されていないけれど、映像作品だけではなく、翻訳小説でも実は原文では使われている表現なのかな……?
とはいえ私が聞き取れていなかったり知識が無いだけで、ある土地に否定的な意味を持たせる表現というのは沢山あるんだろうな。
小泉進次郎の街頭募金集めパフォーマンスに対して、「これが現地に行くより大事なことだ!」とか言ってる投稿に10万人もいいねを付けてるのを見て怒りで動悸が治らない
与党所属の国会議員が今やることもやれることも絶対これではないのに、これを「良いこと」と感じてしまう人がこれだけ多い現実が本当に辛い…
さっき夕方の県内ニュースでの中継で、リポーターが取材に行った集落の被災された住民の方に、「住民以外の人の姿を、地震以来初めて目にしたわ」と言われましたと話していて、もう3日も経つのに、ライフラインが止まってる中で全く支援が届いていない町や村が沢山あることがマジで辛い。
一刻も早く救助と必要な支援が行き渡ってくれ本当に
今年もっとも好きな語りだったのが、バーナディン・エヴァリスト『少女、女、ほか』(渡辺佐智江 訳)。
1890年代から2010年代後半の英国で、黒人の血を引く女性たちとノンバイナリーの12人が、一章ごとに視点人物となり各人の生が語られてゆく群像劇。
台詞には鉤括弧が無く、一人称と三人称がしょっちゅう切り替わり、文にピリオドが付かないままに勢い良く進んでいく。独特な語り方なのだけど、ものすごい没入感だった。
人種、セクシュアリティ、教育、階級、女性蔑視など、時に重なり合うそれらの抑圧に苦しみ打ちのめされ、食いしばって生きる12人の過去から現在。
しかし抑圧や暴力に傷つきもがくと同時に、12人ともが皆それぞれ内面に、別の属性へ対する見下しや偏見に基づく無自覚な差別心を持っている。
どんなに近しい関係性でも他者の内面を見通すことはできないし、良いことであれ悪いことであれ真に分かり合えることもない。
哀しいしやるせないけれど、完璧な人間など誰ひとり出てこない、それらの描きようが素晴らしかった。今年のベスト本です。
2023年に読んだ本の、ベスト10冊。
特に好きな語り方だった作品を選びました。
◆『少女、女、ほか』バーナディン・エヴァリスト/渡辺佐智江 訳
◆『ピュウ』キャサリン・レイシー/井上里 訳
◆『純粋な人間たち』モハメド・ムブガル=サール/平野暁人 訳
◆『女たちの沈黙』パット・バーカー/北村みちよ 訳
◆『亡霊の地』陳思宏/三須祐介 訳
◆『イスタンブル、イスタンブル』ブルハン・ソンメズ/最所篤子 訳
◆『ミルク・ブラッド・ヒート』ダンティール・W・モニーズ/押野素子 訳
◆『ああ、ウィリアム!』エリザベス・ストラウト/小川高義 訳
◆『襲撃』ハリー・ムリシュ/長山さき 訳
◆『ニードレス通りの果ての家』カトリオナ・ウォード/中谷友紀子 訳
『ホワイト・フェミニズムを解体する』
1851年の全米女性権利会議での「わたしは女ではないの?」の演説が有名なソジャーナ・トゥルースについて、白人作家がトゥルースの演説内容に南部方言と架空の創作を追加して、ステレオタイプな「奴隷の乳母」に仕立てられたことも詳しく書いてあった。
トゥルースは1790年代ニューヨーク州で奴隷として生まれ、低地ドイツ語が母語であり英語をマスター。
そんなトゥルースの演説を、白人作家のフランシス・ダナ・バーカー・ゲイジが作り話とともに南部方言に書き替え、その後ハリエット・ビーチャー・ストウも、ニューヨーク生まれのトゥルースについて彼女が奴隷としてアフリカから渡航してきた際の話(!?)という架空の物語を寄稿して後押しした、と……。
「白人が心地良く受け入れた、レイシストによるソジャーナ・トゥルースの架空の言葉を覚えているのに、同時代の黒人女性たちの功績、成し遂げたものは忘れている。」
私もソジャーナ・トゥルースが南部方言で話していないと知ったのは数年前(何かの本が発売された時に批判が出ていたのを目にしたのだったと思う)なので、私もずっと白人のリベラルやフェミニストが作り出した都合の良いものだけを見ていたんだな……と改めて思い知らされた。
読んだ本のことなど。海外文学を中心に読んでいます。 地方で暮らすクィアです。(Aro/Ace)