「人文主義の分裂」
一般にルネサンスと結びつけられる人文主義(ヒューマニズム)、文献学と結びついた古代復興という点では12世紀まで遡れる。
しかし古典ギリシア語を媒介にした「古代復興」はコンスタンティノープル陥落(1453)以後急激に前景化。これはコンスタンティノープルからの亡命知識人の流入も大きな刺激になる。
こうした中で新約聖書からの古典ギリシア語からの直訳(中世はヒエロニムス訳「ウルガタ」)が進む。この聖書文献学の当時の最高権威がエラスムスとなる。
他方、フィレンツェではロレンツォ・ディ・メディチの周辺のフィチィーノ、ピコ・デラ・ミランドラ等「ネオ・プラトニズム」が抬頭(中世はアリストテレス)。ボッティチェリなどの美術史のフィレンツェ派の多くもネオ・プラトニスト。
同時にフィレンツェではマキャベリなど政治的人文主義が強い影響力を持つ。
しかし、ギリシア語からドイツ語に新約を翻訳したルター(中世では死刑該当)から始まる宗教内乱によって16世紀人文主義は分裂していく。
メランヒトン、フッテン、カルヴァンはプロテスタントに、エラスムス、トマス・モアはカトリックに留まる。
ネーデルランド後期人文主義リプシウスの新ストア主義はこの宗教内戦の終結を目的として登場します。 [参照]
これまで16-17世紀ネーデルランド人文主義の「新ストア主義」について説明なしに語ってきました。
ストア哲学については、既知の方が多いと思います。
プラトン・アリトテレスから約200年後、ヘレニズム期にゼノンを創始者とした学派。倫理学を中心とした政治的には古典期と異なり、コスモポリタニズムと特徴としたとされる。
とは言え、500年も続いた学派なので、次期によってゼノンの前期ストア、中期ストア、セネカ、マルクス・アウレリウなどの後期ストアに哲学史上は区分される。
皇帝ネロの師セネカや皇帝でもあったマルクス・アウレリウスに典型的なように、後期にはローマ支配層のかなりの部分に浸透。ただし、共和政擁護のキケロは時期的に過渡期にあたり、思想も後期ストアとはやや異なる。
新ストア主義とは人文主義によって再発見された後期ストア、とりわけセネカに依拠しながら宗教内乱を収束させる「国家主権」を前景化させる。ローマにおいては、「主権」という概念はない。
近代国家の主権概念はボダンに始まるとされるが、当時の影響力はリプシウスの方が上。またボダンは「君主は法を破ることができる」としたが、リプシウスは「君主は自然法の下にある」とした。有名なリシュリューの「国家理性」はボダンではなく、リプシウスに由来するものです。