「人文主義の分裂」
一般にルネサンスと結びつけられる人文主義(ヒューマニズム)、文献学と結びついた古代復興という点では12世紀まで遡れる。
しかし古典ギリシア語を媒介にした「古代復興」はコンスタンティノープル陥落(1453)以後急激に前景化。これはコンスタンティノープルからの亡命知識人の流入も大きな刺激になる。
こうした中で新約聖書からの古典ギリシア語からの直訳(中世はヒエロニムス訳「ウルガタ」)が進む。この聖書文献学の当時の最高権威がエラスムスとなる。
他方、フィレンツェではロレンツォ・ディ・メディチの周辺のフィチィーノ、ピコ・デラ・ミランドラ等「ネオ・プラトニズム」が抬頭(中世はアリストテレス)。ボッティチェリなどの美術史のフィレンツェ派の多くもネオ・プラトニスト。
同時にフィレンツェではマキャベリなど政治的人文主義が強い影響力を持つ。
しかし、ギリシア語からドイツ語に新約を翻訳したルター(中世では死刑該当)から始まる宗教内乱によって16世紀人文主義は分裂していく。
メランヒトン、フッテン、カルヴァンはプロテスタントに、エラスムス、トマス・モアはカトリックに留まる。
ネーデルランド後期人文主義リプシウスの新ストア主義はこの宗教内戦の終結を目的として登場します。 [参照]
フィレンツェの政治的人文主義者マキャヴェリ(1469-1527)は、日本では「権謀術数」のイメージで語られることが多いが、研究の世界ではポーコックの『マキャヴェリアン・モーメント』以来、ローマ的「徳」を重視する「共和政論者」としてまず位置づけられる。
「ディスコルシ(ローマ史論」、「フィレンツェ史」では共和主義が前景化する。有名な『君主論』は失脚した後、フィレンツェの「僭主」となったロレンツォ・ディ・メディチ2世に献じられたもので、そこでは教皇アレクサンドル6世の息、元枢機卿・教皇軍司令官のチェーザレ・ボルジアが「獅子の力と狐の狡知」を兼備した理想の君主として語られる。
ただ、いずれにせよ、マキャヴェッリはローマ共和政の市民軍を理想とし、「運命の女神」に対する「男性的能動性」を強調したことには違いはない。
しかし、宗教改革・トリエントの反宗教改革によって、ヨーロッパ、とりわけドイツ、ネーデルランド、フランスが宗教内乱(聖バルテルミーの虐殺)に陥っていくと、軍事的「能動性」を抑制する必要性が感じられるようになる。
この要請に応えたのが、ネーデルランド後期人文主義のリプシウスの新ストア主義的な国家哲学。リプシウスの新ストア主義は、オランダのみならず仏のアンリ4世にも受け入れられていく。 [参照]
F.ボルケナウ『封建的世界像から市民的世界像へ』。1934年、フランクフルト社会研究所から出版された(序文M.ホルクハイマー)。
丸山眞男『日本政治思想史研究』に収められた第一論文(1940)及び第二論文「近世日本思想における自然と作為」(1941)は、このボルケナウのシェーマを下敷きに、ヘーゲル的叙述によって組み立てられたもの。
丸山自身は1929年に出版されたK.マンハイムの『イデオロギーとユートピア』の決定的な影響を強調する。確かに、未だに、イデオロギー論としてはマンハイムのこの著作を超えるものは出ていない、と言ってもいい。
しかし、ボルケナウの著作も現在再読すると、単なる「封建」ではなく「近世」思想への着眼的の独創性には驚嘆する。マキャヴェリ、ボダン、アルトジウス、グロティウスを扱った第三章「自然法と社会契約」、またリプシウスとモンテーニュ、リベルタン、ジェズイット、ジャンセニズムを分析した第四章など。とりわけリプシウスと新ストア主義の関係の重要性を指摘した箇所などは「先駆的」以上。
この時点ではディルタイが言及している程度で、WWII後G.エストライヒによって新ストア主義の重要性は再定位された。
晩年までストア主義に拘るフーコーは、エストライヒを読んでいたのか?