モンテーニュ、ラブレーなどの「超大物」を擁しながらも、ヨーロッパ研究者に「フランスにもルネサンスがあったのですか?」と何度も聞かれて渡辺一夫が慨嘆したことは投稿しました。
ところで、ルネサンス以来の「油彩」の技法を元来発達させたのは、「北方ルネサンス」とも呼ばれる15-16世紀のネーデルランド。
日本では、ヴァン・エイク兄弟、ブリューゲル、ボスなどの名が知られる。
またデューラーは北方とイタリアを繋ぐ巨人。サルトルの『嘔吐』の初版表紙はデューラーの「メランコリア」。
美術史では北方ルネサンスは「古代復興(ヒューマニズム)を欠く」ともされるが、これは正確ではない。エラスムス、フッテンなどの人文主義の巨人がいる。
またライデン大学はリプシウスを代表とする後期人文主義の拠点となる。ボダンの同時代人、リプシウスはキケロを批判し、セネカを擁護する新ストア主義の国家哲学を展開。
この新ストア主義、マウリッツの軍事革命を起点として近世・近代の「規律=権力」の基礎となる。
この後期人文主義、視覚芸術ではレンブラント、フェルメールの時代。
フーコーはリプシウスに言及しないが、『監獄の誕生』は事実上「リプシウスの長い影」を追跡した書物とも言える。
左)メランコリア
右)「死の勝利」(ブリューゲル)
「人文主義の分裂」
一般にルネサンスと結びつけられる人文主義(ヒューマニズム)、文献学と結びついた古代復興という点では12世紀まで遡れる。
しかし古典ギリシア語を媒介にした「古代復興」はコンスタンティノープル陥落(1453)以後急激に前景化。これはコンスタンティノープルからの亡命知識人の流入も大きな刺激になる。
こうした中で新約聖書からの古典ギリシア語からの直訳(中世はヒエロニムス訳「ウルガタ」)が進む。この聖書文献学の当時の最高権威がエラスムスとなる。
他方、フィレンツェではロレンツォ・ディ・メディチの周辺のフィチィーノ、ピコ・デラ・ミランドラ等「ネオ・プラトニズム」が抬頭(中世はアリストテレス)。ボッティチェリなどの美術史のフィレンツェ派の多くもネオ・プラトニスト。
同時にフィレンツェではマキャベリなど政治的人文主義が強い影響力を持つ。
しかし、ギリシア語からドイツ語に新約を翻訳したルター(中世では死刑該当)から始まる宗教内乱によって16世紀人文主義は分裂していく。
メランヒトン、フッテン、カルヴァンはプロテスタントに、エラスムス、トマス・モアはカトリックに留まる。
ネーデルランド後期人文主義リプシウスの新ストア主義はこの宗教内戦の終結を目的として登場します。 [参照]