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大量の同性愛表象の集積と共に左派的な政治性の発露への嫌悪感情が渦巻き「」ハッシュタグデモの無言の受容の様子がサークル配置と各々のSNSアカウントの重ね合わせで嫌でも見えてしまう、同人誌即売会の空間対策に、プログレスプライドフラッグ×デヴィッド・ヴォイナロヴィッチのナマモノ(nmmn)二次創作したんですよ。
(ネタ元『美と殺戮のすべて』グループ展「Witnesses: Against Our Vanishing」のシーンより)

キンコーズ新宿南口店でbrotherのガーメントプリンター「GTX」を使ってみましたの覚書。セルフプリントでも店員さんが付き、順番待ちにならなければ1枚程度のプリントはサクッと済みます(前の人がアパレル生産の物量ならその日はあきらめましょう順番は回ってきません)。スペック通り白インクもプリントできますが、インク量が多く布びちょびちょで作業が大変ですよとのこと、印刷データのアートボード位置情報を読み込む方式ではなかったので版を分け重ねる場合は見当ピッタリ合わせるのは難しいのかな~。というのが気になります

フォレンジック・アークテクチャーのリサーチを系譜に位置付けている箇所におお~すごい~となりました。

note.com/sugawarashinya/n/nc47

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えーと、あとはなんだ、あの、展示室に入った瞬間の絶望、消えかけたゼロックスコピーのドキュメントが乗った水平に広がる複数の机/展示室の壁いぐるっと張り巡らされた写真または記録用紙/部屋の隅には映像記録のループ再生…といったアーカイブ資料で満たされた空間ですべてを(み・な・け・れ・ば)というプレッシャーでつい何もない壁をしばらく眺めてしまう。。というのは自分だけじゃないんだという情念から、『Jodo Journal』第5号、クレア・ビショップ「情報オーバーロード」を読みました。

しかし展示が上手かった。複数の映像/モーターで動くインスタレーションの会場構成で音が混ざり合わない配置になっているのは、ドローイングの描線やインスタレーションを構成する実体の素材が作る直線と同じく、非常に単純化された表面を持つGCアニメーションが10年単位の時間の経過を感じさせない一貫したスタイルを保っているの力と同じか。作品間の移動する見る私に強制はかからずとも空間全体を整然と統制する意思は激しい

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(手元の作業は絶賛停滞してますが)GWに宇都宮美術館で観たイヴ・ネッツハマーの、20-21世紀的な暴力に傷みやすく境界はたやすく浸透して動物と同化し身体はマクロとミクロのスケールを行き来しジェンダー化されない「ひとのかたち」の記憶を反芻しているのは割と幸せです。

まさにいま裏返して穿いてないことからパンツは3枚以上所有しているでしょう

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やばやばしごしごしごとぜんぜんおわぜん終わらない。よって明日より先のことは考えられず2週間以上アイロンがけは止まりシャツの小山が部屋の隅で成長を続けているがまだハンガーには着れるシャツがかかっている。全部で何枚?

これもへなっとした戦闘機の、中ハシ克シゲ『ZERO Project』
uozumi.net/zero.html

兵庫県公館に設置された中ハシ克シゲの彫刻『Dog Night』の前のベンチで漫然と近くのパン屋Pane Ho Marettaで買ったホットドッグを食べてて、魚のホームページ uozumi.net/ に行き当たったのですが、今回の再読では村上隆「インポテンツな現在」とは抜かりない展示の配置と見えてしかし永遠の0的なものへの通路だったかなと、輝いていたスター作家の記憶に苛々しました

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ちょうどフィオナ・バナー/Fiona Bannerの退役の、模型の、描かれた画像の、やわらかいデコイの戦闘機をぐるぐる見て回っていたところだったので
tate.org.uk/art/artists/fiona-

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ハヤカワからぶいぶい出るぞだがしかしハヤカワ・オンラインのページにアクセスできない『WAYS OF BEING 人間以外の知性』、作者ジェームズ・ブライドルのworkをほーんと見てたら、『ドローンの影』連作ほか「images of the landscapes of drone strikes…」※とあり、展示室(と日常)に持ち込まれた兵器に惹かれるやつはよむやつだ。最近のドローンは天上を漂う幽体というより破壊の光景により近く実体を感じたり、あるいは経済や社会の凋落を知らせる先触れの鳥のような存在感が多い印象ですが…

※風景画として眺める『DRONESTAGRAM』(2012)
dronestagram.tumblr.com/

女性解放運動/公民権運動/反植民地運動…などに強く興味があると推察される人が、オルタナ右翼のカートゥーン(関連するアカウントにStoneTossが真っ先に出ますとも)をリポストしている珍景に、一応驚いてはみたものの、これには超わかりやすいポイント「反クィア」からであり、うっかりではなく多分に確信的な「抵抗言説」なのだろうと判断できる…。へいへい&ほー

ただいま、PFI事業の都立明治公園の希望の広場&インクルーシブ広場という名称の(どちらかというとマイナス方向の)力を感じる場所で風に吹かれ野球場の歓声を聴いて、夕暮れにやや形が見えなくなった茶色の小さい犬を眺めている訳ですが、白い犬はまだよく見える

UCLAキャンパス衝突のニュース映像を見て、学生達が防御に傘を使う様子から香港理工大包囲の『理大囲城』(2020)を連想したりして、あれは人間の顔がほとんど写らない例外的なドキュメンタリーの1本で…学生が“行きて家に帰る”物語で…や、黄色いベスト運動の警察の暴力を扱った『暴力をめぐる対話』見逃したなDVD出てないし…。とか雑念をぐるぐるし。要はショックを受けた

『ハーケンクロイツの文化史-シュリーマンの「再発見」からナチ、そして現在まで-』
読み始めてすぐシグマー・ポルケ『パガニーニ』にうきうき楽しくなり、図版やシンボルてんこ盛りの本は読みながらピンタレストでボードを作ろう!そしてすぐ頓挫したのですが(ソーシャルメディアプラットフォームでハーケンクロイツ画像を検索する心理的ストレス)、未来派に参加したユリウス・エヴォラっつー昔の人は何でいまTシャツとかトートバッグとかグッズ化及びグッズ販売されているのだ…?という疑問は『ゴーイング・ダーク 12の過激主義組織潜入ルポ』(解説:木澤佐登志)の冒頭で解消されました

世田谷美術館での馬六明(マー・リューミン)のパフォーマンスの記録(長谷川祐子)。携帯電話にカメラが付く前の公共の場に現れた裸体なんだよなあ。
artscape.jp/museum/nmp/nmp_b/c

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モナ・ハトゥムは世田谷美術館の展覧会『デ・ジェンダリズム~回帰する身体』(1997)に参加している。図録の実物を古本屋でぱら見したのみ
setagayaartmuseum.or.jp/exhibi
>タイトル、「デ・ジェンダリズム」は、ある人間のアイデンティティを問うとき、まず男か女かを問い、そしてその社会的役割(ジェンダー)というフィルターを通して「その人は何なのか」を判断しようとすることへの疑問から始まって…

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『ホロコーストとナクバ——歴史とトラウマについての新たな話法』の序文(第1部第1章で力尽き中)、にモナ・ハトゥムのエルサレムで行ったサイトスペシフィックな展示『Present Tense』(1996)が、“ナショナルなホロコーストの歴史的解釈の断絶”エピソードで出てくる。ナブルスのオリーブ石鹼の香りとWWⅡの人間石鹸の存在しない香り
aluo.uni-lj.si/en/objava/mona-

先進資本主義におけるポスト工業化時代の主体としてわたしがそのただなかにいる宇宙においては、人間の女、オンコマウス、クローン羊ドリーのあいだには非常に多くの親密な関係があり、それゆえ、それら三者の身体化され状況に埋め込まれた場所には共通点が多い。
(省略)
同様に、人間という種の女性として状況化されたわたしの立場ゆえに、わたしは構造上、サービスを提供する側にいる。かくしてわたしは人間という種の不可侵性や統一性をめぐるいかなる観念よりも、望もうと望むまいと臓器や細胞の提供者である有機体により近いところにいるのだ。
(省略)
わたしの性別は、価値下落的な差異あるいはより価値のない存在として理解された「他者性」の側に陥れられた。ポストヒューマンへの生成変化がわたしのフェミニスト的自己に訴えかける理由のひとつは、歴史的にいってわたしの性別が完全な人間性(ヒューマニティ)に成り遂げることができなかったからである
(省略)このあとフェミニズムSF的に(しか読めない!)盛り上がりまーす。写経転記終わり

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お知り合いがくそったれ女性の定義をRTしてるのについtwitterXにちくちくPOSTする愚行の後、ガレノスのワンセックスモデルの図をじっとみる→ブライドッティのポストヒューマンのよく分からないがかっこいい所を写経する、などパターン化の気晴らし後、翻訳が出るんですってねの下記を読みました。『人間狩り』の後書きで名前が出てきた人だ。

エルザ・ドルラン『人種の母胎』における 「妊娠・出産」の問題
oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images

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