PLAN75はほんと良くできた映画だったな。パートナー(わりと維新思考)の希望で観に行ったんだけど、安楽死や尊厳死を進めて欲しいってパッタリ言わなくなった。それがいまの社会で起きたら「どういう事になるか」気づいたんだと思う。もっとお涙系もしくは是枝的な押付け系かと思ってたけど、何よりCMの言葉などの政府の動きがありそう過ぎて、あとはただ有り体な人間像を描いていくところが良かった。倍賞美津子の周りを尊重できてちょっと遠慮しがちだけど堅実ででも少し不幸な姿が親と重なるのよな。
山村で暮らすようになって人類が歩んできた生活の成り立ちの原型に触れる感覚が増えた。野生動物の脅威や自然現象による物理的危険に対する構え方、ホモサピエンスとしての動物的衝動の発露や集団的防御法のひとつである共同体形成への本能的反応とか。政治への距離の取り方も実はそういうことの延長であったりする。とにかく既存のシステムへの執着の強さが尋常ではない。瞬間瞬間が極めて政治的なのだ。ヒト科が群れとして動いている実感。群れの掟を破ることは群れ全体に危機をもたらすからそういうものは全力で排除しようとする村八分もまた本能の発露。ただ如何せん、群れの個体の高齢化、個体数の減少はそれらを根本的に弱体化させることに本質的にいまだに気づけていないから、確実に地域からヒトは滅びつつあるのが現実。結論すれば、ヒト科は保守化を突き詰めれば突き詰めるほど柔軟性を失って滅びの速度を早めるということかと思う。
こういう人は多いんだろうな。申し訳ないけど、立憲の支持者みたいに「自民党を信じて」る。https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202410130000241.html
今現在、前頭側頭型認知症で特養入居中の義母の介護サポートをしているのもあって、玉木の発言には違和感ありあり。そもそも高齢認知症の方は法的に成年後見制度などを使わないと土地の売却すら出来ない。ましてや尊厳死の判断など。認知症高齢者の自己決定権というのは倫理的にも法的にもかなり繊細な判断が個々要求される。
尊厳死と社会保障を一緒に議論すること事態が裏が透けて見えて不遜過ぎる。
尊厳死どころか、日本国民の高齢者の生から尊厳を奪い続けているのは与野党の政治家と提灯学者と広告屋と大企業の連中。
太郎くんは小沢さんと一緒の頃からずっと分不相応なことをやろうとしてきました。それはいまもそうです。その中身は既得権益層が故意にせよ不注意にせよ取りこぼして道端に捨ててきた人たちの思いを必死で拾い集めて、集めて、集めて、まだ容れ物もないのにそれでも集めまくって指の間からこぼれ落としたものを労組を中心とするもう一方の既得権益組織から“人の志を落とすとは何事か!”と怒鳴り散らされ小突き回されて、それでも拾い集めることをやめてない。どんだけメンタルが強いのかとある意味呆れ返るくらいですが、そんな山本太郎に対して口を極めて罵る者たちの本性がわかっただけでも今回の沖縄1区の件は自分にとってひとつの目安となりました。やはり山本太郎と仲間たち、すなわちれいわ新選組にしかこの時代の政治の緊急対応はやらせられない、と。
私が逮捕された時、表でも裏でも救援のためにいろいろ動いてくれた人たちがいて、その少なくない人たちが今のれ新にいる。山本太郎さんは、かの天満署抗議(天満署講義とも言われたがww)の現場にも来てくれたし、獄中にもハガキを送ってくれた。そういうことを、打算ではなく原則的に考えてできるのが彼のいいところだ。彼の考えや振る舞いにいろいろ言う人がいるのはわかるが、あの人は嘘やおかしな駆け引きはしない、人として根っこのところで信頼できる人やと思ってる。
その点でいくと、共産党は組織も大きいし人も多いからある程度はしゃーないと思うけど、私の救援で手助けしてくれた人と同じくらい、「あいつは中核派や」と陰口叩いて攻撃してくる人もいたし、組織としてもそういう対応だったと聞いてる。以後、話しかけてこなくなった関係者もいるしね。
なので、そういう「打算」もしてくる組織だとは認識してる。「大人」というんなら大人なのかもしれないですね。この点についてだけ言えば、私にはれいわの「子どもっぽさ」の方が好ましいけど。
野田立憲が、はなっから共産を袖にしておきながら、さも共闘できないのは共産のせい、と印象付けようとする陰湿な言論には本当に辟易するし、さすがに泉→野田と来て「完全に」見限ったわけだが、共産がれいわに仕掛けてることも立憲→共産と大して変わらん。むしろ、一見共産のいやらしさが見えにくくなってる分、余計に悪質とも思える。
今回の沖縄1区の件、当然4区問題との繋がりも踏まえて見るべきだけど、私の心象は当のれいわや(元々最悪の)立憲よりも、共産について悪化したよ。共産党はこの事態を止めれたのに止めなかったし、止めなくても非難はれいわにこそ向かうと理解してたからこそ止めなかったんだろう。よく考え抜かれてると思う。
そして、こういうところが、「共産だけは許せない」という左翼がチラホラいる原因だろう、と思う。時々、こんな感じで陰湿さが露わになることがある。見てる人は見てるから、この幻滅は安くないと思うよ。
前段階の議論、論争すらまともに出来てないんだからね。共闘なんてまだまだ先の話。それにしても伝統野党のおとなげなさにはちょっと驚いている。そこまで自分たちの組織維持への危機感があるということかもだが、他人をやたらと信者呼ばわりするボキャ貧にはいい加減に気づいたほうがいいと思う。
また学祭の季節。母校の学祭、かつては完全に学生が主役、すべての主導権は学生の実行委員会にあった。それはなんと言っても創立者の後ろ盾があったからこそで理事会のつけてくる予算緊縮指針や綱紀指針のようなものに徹底的に抗うのがデフォルト。その時の金看板は「本学はどこまでも学生主体」という建学の理念だった。学生の自主性を尊重しない教職員は去れというほどの空気感があった。しかしどうやら昨今は違うらしく、学生自治会もクラブ活動をまとめる学友会もすっかり当局側の御用団体となり、自由闊達な空気はすっかり薄まってしまったと聞く。そしてそのような圧力をかけ続けているのが他でもない、母校のOBOGたちなのだ。口先でどんな思想を掲げていても原点を忘れたら人も組織もあっという間に瓦解する。その見本のような存在になってしまった我が母校。今ではただの5流大学である。
大阪と和歌山のMIX。ふぐすま県在住の 地球人。