ところでかかる木下の超展開は、
メディア/メディウムの選択と歴史的同時性において、高松次郎(1936〜98)と並行しているように思われます。高松も1980年前後からそれまでの彼の作品に見られた影や遠近法といったキーワードを擲ったかのような絵画に注力するようになり、それは藤枝晃雄(1936〜2018)といったモダニストの劇症的な反発や無理解を招きながらも継続されることになるのですが、今日の視点から見たとき、高松の絵画への回帰は「影」や「遠近法」といったキーワードによって現わされるようなイリュージョンと違った形で絵画の持つ空間性を主題にしようとしていたと見ることができる。実際、高松は70年代において《平面上の空間》というシリーズを手がけることでかかる空間性への探究に手をつけ始め、80年代以降は《形》《形-原始》シリーズによって超展開を見せていくことになるのでした。
木下と高松の関係性については、この展覧会の図録に所収されている光田ゆり女史の論考「思考の結晶──木下佳通代の写真と絵画」(赤々舎、2024)で次のように指摘されています。
やや難解な言葉づかいで、木下は絵画空間のことを語っているのだ。遠近法が描き出す三次元的なイリュージョンとは異質な、絵画にだけが持ちうる空間について語っている。みることの根本を検討してきた木下が、錯視効果で三次元の擬似空間を表す遠近法を試みるはずはない。もちろんキュビスム的なファセットの浅浮彫、触知的な空間イリュージョンも求めはしない。視覚上にのみ存在する、絵画面(ピクチャープラン)独自の、特別な「深み」について語っていたはずである。高松の仕事を経由することで、私たちは木下の絵画が、「自らの方法で絵画独自の空間を表そうという課題」に突き動かされたものであること、そしてその課題に対して、描くことと拭うこととを同時進行するように描くことで、「視覚上にのみ存在する」ものを「存在」として改めて存在させることで応えようとしたことが見えてくるでしょう。それを思考の内的な論理によってドライブさせるという、その純度の高さに、さらに言うなら、そのような純度の高さによって作品を立たせることができた時代が確実にあったことを今に伝えているのではないか──そのようなことを考えさせられるのでした。
(略)
木下はまもなくペーパーワークからカンヴァスへと移行して、色数を絞り、筆触のせめぎあいで作られる画面を探求していく。一方、高松次郎の「平面上の空間」はこの後、色面が並列し、細い色面が幅のある線でもあるような余白のない画面へと進んだ。続いて1980年から「形」シリーズを始め、高松は様々な色彩のうねる線で画面全面を埋め尽くした。両者の展開は並行してはいないが、自らの方法で絵画独自の空間を表そうという課題を、二人の作家が共有していたと考えてみたい。
かような
1970年代における、写真やリトグラフを用いて存在と視覚・知覚する行為との間隙を巧みに&そんなんありか〜!? という形で突いていく作品はもちろん、80年代以降亡くなるまで続けていく絵画作品がまとまった形で紹介されていたことにも注目しなければなりません。展覧会では1982年に描かれた《82-CA1》を、木下の思考をめぐる決定的な転換点としてフィーチャーしていましたが、これ以降の彼女は絵の具を雑に塗りながら雑に拭っていく、言い換えるなら絵具を塗ることと拭うことを同時進行させて描く絵画作品に終生にわたって没頭することになる。一見すると1970年代の禁欲的なと雑に括られるであろう作品とは真逆のヴィジュアルを見せることになるわけですが、しかし先述した存在と視覚・知覚との間隙を主題化するというモーメントは、ここでも変奏されています──木下はかかる絵画への回帰について「写真の使用によって、観念が先行し、表現が手段となる恐れが出てきたために、直接描くことを始めた」(「木下佳通代展」(『美術手帖』1981年2月号所収))と語っていたそうですが、「直接描くこと」に踏み込むことで、彼女の絵画への回帰は1970年代の日本現代美術における諸動向が共有していた存在と視覚・知覚の相剋という問題系を、存在に引きつけて突破していく、その端緒となったと言えるかもしれません。
木下佳通代(1939〜94)、関西では
神戸市にあるギャラリー島田や兵庫県立美術館が、彼女の長年のパートナーだった奥田善巳(1930〜2011)の作品と並べて展示することはときどきありましたが、今回のような大規模かつ画業全体を俯瞰する個展は管見の限り初めてでして、始まる前から注目しきりでした。具象寄りな油画を描いていた最初期から抽象画へ、そこから写真を大々的に用いたコンセプチュアリズム&ミニマリズム全開な作品に歩みを進め、さらにそこから身を翻して再び絵画へと転進していく──この展覧会では、そのそれぞれの時期の作品を多く紹介した上で、この間の彼女の、思考における連続や飛躍がある程度見えてくるように配置されているように思われ、その点においても配慮が行き届いていたと言えるでしょう。
木下における思考の連続や飛躍・断絶は、同時期のもの派・ポストもの派同様、事物の存在をめぐって展開されたとさしあたっては言えるでしょう。ただ彼女が独特だったのは、多くの美術家が取り憑かれた事物の存在をめぐる問題系に対して、存在とそれを視覚・知覚する行為との間隙を作品の中に何層にも折りたたんでいくことで迎撃しようとしていたことにあった。1970年代に集中的に手がけられた、プライマリーな図形と描かれた図形とが二重写しになっている版画作品あたりにそれは顕著でしょう。そこでは、イデアとして仮構される形(=存在)と、実際に紙の上に描かれたものであることが強調された形(=視覚)とが同時に単一の平面上に描き込まれることで、鑑賞者は両者の同一性とギャップとを同時に受け取ることになり、それによって存在と視覚との間を触知することになる。たとえそれが視覚という行為が見せる一瞬のイリュージョンであったとしても、です。
知られざる重要作家の全貌。「没後30年 木下佳通代」(大阪中之島美術館)レポート https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/kazuyo-kinoshita
大阪中之島美術館で開催中(〜2024.8.18、その後埼玉県立近代美術館にも巡回)の「没後30年 木下佳通代」展、当方は先日見に行きまして、その極渋さに大満足だったのですが、レポート記事が上がってるんですね。今知った(爆)。
中上健次(1946〜92)の未完の大作『異族』が講談社文芸文庫から発売され、¥3,850(税込)という強気きわまる価格で話題となっているようですが、あのとき(あのとき?)小学館文庫版を買っていた当方にスキはなかった こちらは1998年の発売当時、¥1,200+税でした
https://x.com/t__kamizono/status/1800033075356897749?s=46&t=HVpKYwTPKrcFmeLhJHBABA
「70年代再考 版画・写真表現の波紋」展|2024.6.25〜7.20|galerie 16(京都市東山区)
DMが届きました。
企画:塩田京子という圧倒的布陣で1970年代の美術を振り返るといった趣の展覧会。坂上しのぶ女史は2012年にgalerie 16が50周年を迎えた際に行なわれたトーク──5日間連続で、各ディケイドごとに当事者を招いて振り返るというものでした──を企画し、2020年には、長らく京都で制作活動を繰り広げたジェームス・リー・バイヤース(1932〜97)についてのモノグラフィを刊行するなど、日本現代美術史について堅実な仕事を重ねており、信頼性はピカイチなので、今回も超期待。1970年代の日本現代美術について、とりわけその思考をめぐって論ずるに、版画と写真にフォーカスするのはむしろ定石ではあるのですが、そこからどのようなアクチュアリティを引き出すのか、気になるところ。
企画協力:坂上しのぶ
出展作家:高松次郎、木下佳通代、彦坂尚嘉、木村秀樹、辰野登恵子、木村浩、石原友明
第一夜「70年代という時代」 パネリスト:中島一平、木村秀樹、長野五郎
第二夜「現代美術における写真」 パネリスト:木村秀樹、木村浩、石原友明
特別展 創立100周年記念 信濃橋洋画研究所 ―大阪にひとつ美術の花が咲く― https://artexhibition.jp/exhibitions/20240531-AEJ2094970/
2024.6.22〜8.25、芦屋市立美術博物館。信濃橋洋画研究所という名前自体は、常設展で大正〜昭和初期の洋画に接したときにキャプションで見かけることがあるから、かつてそういう教育機関があったこと自体は知ってますが、内実については全く知らないだけに、こういう展覧会はありがたいですね。うまく日程を作って見に行きたい。
先だって大阪中之島美術館で開催された「決定版! 大阪の女性画家たち」展でもそうでしたが、大阪は長年、美術に関しては一大消費地であっても生産地(生産地?)ではないとされてきたもので、そんな大阪像に対する修正を図る動きが同時多発的に出てきているのは、興味深いところです。
AIが書いた漢字を書道する https://dailyportalz.jp/kiji/AI-shodo
宮津大輔氏&ART SHODOの皆さんがアップを始めそう?
「Insight 31 “卑近なものたち/something familiar”」展|2024.6.12〜30|Yoshimi Arts
DMが届いてました。Yoshimi Artsが企画展の合間に開催しているInsight、他のギャラリーにおける常設展的な位置づけの展覧会ですが、同ギャラリーにおいては単なる常設展というわけではなく、新収蔵品や取扱作家の作品による小企画を見せるものとなっており、オーナーの稲葉征夫氏の創意がダイレクトに反映されているので、企画展同様見逃せない。今回の出展作家はレイチェル・アダムス、上出惠悟、笹川治子、佐藤克久、西山美なコというラインナップ。画像は佐藤克久《みたて(サップグリーン)》(2023)
漫画が爆速で完成する…韓国発「ウェブトゥーン」 生成AIで作画アシスト 目指すは「漫画界のネトフリ」:東京新聞 TOKYO Web https://www.tokyo-np.co.jp/article/331411
ここ最近、各所で注目を集めている様子のウェブトゥーンですが、当方は未だに接したことはなく
……しかしそれにしても、メディアや出版社がかようにウェブトゥーンに熱視線を送っているのは、これが韓国発の新しいエンタメだからである以上に、メディアミックスなどのビジネススキームから「(原)作者」を厄介払いしたいからなのかもしれない。折しもマンガの実写化をめぐって大炎上している昨今、原作者をマトモに遇するよりは、最初から権利を独占できるスキームを作る方が楽だと判断するでしょうし。記事を読むに作画担当(というか生成AIのオペレーターというべき?)にはなんの権利もないようですね。着々とスキームが作られているようですから、2026年くらいになると、ウェブトゥーンの方の映像化が主流になりそう
好事家、インディペンデント鑑賞者。オプリもあるよ♪