ジュリアのおとうさんの「生まれた時からこうさ」とか、地味にいいんだよな。そこに意味なんてなくていいのよ。まあ大団円が雑という欠点もあるんだけど、でもあの「気づいてないけど、そこにはもうずっといたんだよ」の表明はこどもさんにとても大事なことを伝えているのでは。まだここか、と言ってしまうには勿体無いと思うよ。
こどもにも仕事があるのが当たり前だった頃を舞台にしてしか描けない児童の児童らしさってあるよねー、と前日にみた「エンドロールのつづき」とタッチはまったく似てないのに近いところがあまりに多いのに(あのラスト!)少し笑う。定型の強みが見直されているとしたら、それは良いことだと私は思う。
やはりどこかで人形劇とアニメーションのまとまった論考を読みたくなってきた。ソウルフル・ワールドやレッサーパンダで少し心が離れてしまったんだが、この路線でキャラクターのパペット化(なんかひとみ座っぽいの)が進んでくれたら期待できる気がする(むしろそこしかないよねとも思うし、その路線のほうが好きというだけですが)。見逃してたミラベルとかマイエレメントとかも見てみようっと
夏も終わりの気配がしてきたので『あの夏のルカ』を見たのですが、え、これ普通にすごくよくできてるのでは。小品としてなんだけど。体育館でみる児童映画的なポイントがかなりきっちり押さえられている。ジブリの影響下にある作品において最もきちんと「児童映画」をやれてるのではないか(カートゥーン・サルーンとか好きだけど「児童映画」は作ってないと思ってるので)。やはりポイントはイタリアなんだろうか。
『エンドロールのつづき』が想像以上に面白かったので驚いた。事前にどうやらインド版ニューシネマパラダイス売り(するしかなかったのもわかる)の雰囲気とは違うらしいということは聞き及んでいたのだが、物理的に映画とは…というか「映画を上映する」とはどういうことなのかの話をずーっとしていて、むしろ情緒を隅っこに追いやりまくる。一応のストーリーラインは映画少年もののフォーマットに則っている(し、自伝ベースらしいし)のだが、興味はそこじゃないひとだね監督?
「映画になりたい」「いや映画を作りたい、だろそこは」という先生との会話があるのだが、あの子(監督)実際「映画になりたい」んだよな…作る側には画面を見つめる子だった人ももちろんいるとは思うのだが監督になるタイプでこういう最初から「映画とは何か」を射抜く目の子がいるのか…
根っからのDIY体質が冒頭で示され、最初から「映画とは光だ」と気づき、マッチ箱紙芝居で語ることはもともとやっていて、映写室で見たことでフレームに気づき、実験しては「回転」「運動」「音」とか映画の原理的なとこを次々に物理的に発見して実践しているのがどこまで実話ベースかはわからないし思い出の色フィルターはついてる、とは思うが結構リアルっぽいのでビビる。すげーよ
見る前にどうかなー?と思ってたというのはコメディが難しくならざるをえない世界線を生きてる…と思うからなんですけど、今作は良い意味で少し前っぽい(オープニングがシザーシスターズですからね、そのくらいの前さです)笑いの感覚でつくられてる気がした。いじけたとこがないしフェミニストコメディにも向かわない。しかしガワが変われば当たり前に描かれるものも変わるので古くはない。これだから色んな人が出てくるアメリカ映画が楽しいのだよなー。なんてことを語るような映画でもないのですが。
基本的に言葉で笑わせる話でありながら最終的に前振りの回収をフィジカルにやって感動させるとこがうまくいってる。「いいのかそれは」は微妙に残るけど、全体には綺麗に律儀に回収してまわれてたんでは。「これでいいのだ」の鷹揚さが感じよかったです。
『クイズ・レディー』どうかなー?と半分不安も持ちつつ見てみたのですが、よかったです。リプリゼンテーションのその先へ、が端々に。
サンドラ・オーがギャル中年、歳の離れた地味女子のクイズ番組を見るのだけが生きがいの妹にオークワフィナ。オークワフィナは「かしこいこども」の無茶さと居心地の悪さの人なので、適当にはっちゃけた役与えられてるときよりこういう役の方が絶対いいんだよなー。あのとんでもない猫背!化粧っ気のないパッツン前髪!モゾモゾゴソゴソした動き方!ジェイソン・シュワルツマンにトニー・ヘイルとキャストが妙に通好み(2000年代の感覚で)。ダムファウンデッドが出てるのは昔からオークワフィナの友達だからかな。バッドラップは良いドキュメンタリーだったなーと思い出したり。あとホランド・テイラーのお隣さんの使い方に笑う。そんな!
もっとひねくれた笑いなのかと思ったら、コメディ定番のアメグラエンディングのパロディみたいなことをしているのがいちばんネタ度高くて、本筋はとてもまっすぐに撮られている。ハートウォーミングで脚本がちゃんとしているアメコメの伝統芸を見せてもらいました。「おもしろ」をアジア系女性コンビに任せてサポートに徹したウィル・フェレルの株もあがるってもんよ。
蜘蛛巣城見てた、これも謡ではじめて謡で終わる系だったのかー、ジョエル・コーエン版マクベスが本当全然好きくないやつだったので(カーゼル版は割と好き、ときどきゲームのムービーに見える問題はあったが何をやるかを決めてて、やりきれていた)これはどうかなー?と思ったんだがかなり面白かった。ベルさん様と浪花千栄子様がすごすぎる。あの身体表現、人間ではなさすぎる。
上昇志向の話ではなく(そこの書き込みもナチュラルで見事なんだが)自然という物怪にやられたらなすすべはない、という角度にしてて、あの異様に長い彷徨いとか動く森のこの世のものじゃないもの(に見えてるのだからそうじゃないとね)感とか。台詞は聞き取れなくていいとはいえ「今なんて?」が連続するので多少は困りますが、まあマクベスの筋くらいはわかってみるのがいいやつとは思いますが、しかし面白かったな
『虎の尾を踏む男達』を見て、そんなに面白く見たわけではないのだけど(ようやくなんでもおもしろスイッチがオフにできた、いやよいことだったんだけどテンションが変になって疲れてたのでちょっとほっとした)黒澤明の映画はどうにもクィア・シネマとして読みたくなってしまうね…?の理由がやっと自分の中でつながりました。わたしの和のちょっと危険な男性美みたいなもののイメージの原点が幼少期に触れた伊藤彦造だからなのではないか。まさに安宅だったんだよ。
『クレオの夏休み』は6歳くらいの子がどんなふうに世界を感じているか、限りなく近いところからみせてくれるのがとてもよかった。目と耳と皮膚、感覚をすませてなくても全部を全身で受け止めているのね。
アウェー感もわかっていて、ちゃんと空気も読んでいる。でもいうても、まだ6歳…幼児のわたしは無敵!万能!感からちょっと大きくなってきて「ものがわかりはじめた」とき、その境の年を設定しているのも(もう少し大きくなれば考えてわかっていく、クレオはまだ感じることがわかることと直結している)良いなと思う。すりむいた手をフーフーしてもらうこと。お風呂に入れて耳の後ろまで洗ってもらうこと。触れること、触れられることのよろこびが生きることのよろこび。
どこの国でもどんな家でも、全身を無条件に預けてくる小さな子は誰かにこのくらい愛されて、めいっぱい大好きを蓄えながら育っていってほしいという祈りにも似た優しさは、こどもさんの感じる力を信じているからこそだと思った。言葉にならなさがアニメーションで描かれているのも、こどもさんのお話にはこういう表現もあるんだなあと。
フランスのヌヌ文化はその背景に植民地主義から生まれた資本格差があって…というところまで丁寧に掬い上げながら、だからこそどこまでも優しい愛の尊さも光っていた。
ツイスターズ見てもフォールガイ見ても(どっちも楽しく見たよ!)アメリカ映画がアメリカ映画らしさを自問自答してる感じを受けたわけだが、「結局ウチらが好きなのはいろいろなものが景気よく吹っ飛ぶロマコメなのでは…」という感覚なのであれば興味深い
勝手がわからない