葬送のカーネーション、私はあんまりピンとこなかった…というより「生活どこ?」ってなっちゃったんだけど、バフマン・ゴバディの「半月」見たときの???を思い出したので、私の知らない見方ができる人なら好きかもしれない。メインふたりの言葉を最小限にした旅路は周囲の人たちの言葉だけで進行するのだが、これそんなにアーティにやるような話なんかな、という疑問が。いっそお絵描きも排して背景をわからせなくするくらいまでいけば…いやそれもそれで変か。
全然違う思考でみてたら理解こそできなくても「入れた」気もするんだが…生まれないのがいちばんマシです、のラジオとか妙に印象に残るとこはある。
寓意(あるいは幻視)と現実が曖昧なとこはあえてなのはわかるが、あの旅のなかにも生活者の手触りはうまれてくるはずで、私はスケッチブックよりそっちが見せてほしいところなんだよな…おもちゃ捨てるタイミングとか牛乳ガシャンとかそのように撮ったのはなぜだ…がよくわからず…
踊ってる人たちを車でかきわけてく冒頭とか(全然踊るのやめないの)はよかったんだがなー。口を聞けないらしき羊飼いのとことかどうも苦手な感じでなー。白布ぐるぐるまきが横に「いる」とこはよかった。顔の見えない人。とラストの呼応。声は聞こえない。
本当に旧作邦画は感想言いやすいの多くて好き…
映画的な運動といえば落下と上昇だけど、これぞまさに、なんだよな……そして話が動かない中盤が長くてグダるという声もあるんだけど、私はむしろそこがこの映画をスペクタクルを超える話にしてていいなーと思った。スペクタクルとしてもすごいんだが。わかりやすいおえらいさん批判やメディア批判を言葉にしないのも労働者が労働者であること、を描く上で良かったと思う。そういう話ではない。のだ。
諦めモードになった家族の発言が現実を突きつけてから流れが変わっていくまで一気にいくわけではないのがすごくよくて、転調となる部分に達するまでに連鎖的にではなくひたすら辛抱強く「状況」が積み重ねてある。打開策はご都合主義じゃなくそうでもない限りはどんだけ必死でも無理という話なのだからあれでいいのよ。最後の最後、みんなの感情の総量が一定を超えたとき、それこそあの崩落がごとく一気に終盤の高揚となる、ここが物語上必然なのがすごいんだよな……それにしてもあの田んぼ越しのあちらがわ!あのおまわりさんの看板!ロケーション素晴らしすぎませんか。
あ、ちなみに台詞はすごい聞き取りにくいです。けど全部わかんなくたっていいのよ、そのぶん画面に集中できるし(これは旧作邦画見始め期はハードルになる人もいるかもしれんが…慣れです)
U-NEXTでみた『どたんば』がめちゃくちゃよくて、改めて内田吐夢監督はちゃんと追わないといけない…という気持ちになりました。落盤事故で生き埋めになった炭鉱夫たちの話、ときいて想像される方向としては「生き延びようとする炭鉱夫たちと救出隊の必死さ」描写に力が入るものだと思うんだけど、この映画はどちらとも違っていて、労働者の連帯の困難と手を取り合う意味をアクションとして語る映画なのだった。なので最後まで安堵があるかはわからない、後半にいたっては閉じ込められた人側はほとんど映らないのだ。最初は救助もやじうまもワーッとなるけど(アイスキャンディ売り!)時間が経つうちにイヤーな感じで絶望が侵食していく、しかし、だな。それぞれの持場の物語。
チョロチョロ…と坑内に水が漏れている序盤から水怖いし荒れる川の凄みと建屋の崩れ方がヤバくてヒャーッとなる、迫力あるショットもすごいんだけどみんながわやわやー!としてる奥に「上げる」「下げる」担当のウィンチのみっちゃんがぽつりと配置されてる、あの位置が実に素晴らしいと思ったな…圧巻のセット芸術。
朝鮮人坑夫たちを引き上げさせたものは何か、彼らを引き戻すには何が必要か。50年代には(あるいは、50年代だから)ここまで描けていて、今描けなくなったのは何か。についても当然考える。
なんとなく気持ちがつかれたのでカウリスマキの『愛しのタチアナ』見てた。同じことやってるようでもやっぱり『枯れ葉』は現代性が加味されてるのわかるねー。同時に気持ちがいいほど人間に大事なことはいつでも同じこと、なのだなと。ここは何もないのでピカピカの車でロックンロールをききながらどっかいきたいのです、だけの話。
60分そこらなので中編なんだけど、適当な120分映画を見るより彼らと一緒にたらんたらんと長い時間を過ごしている感覚がある。凝縮が引き伸ばし効果になることがよくわかるかんじ。何を喋っていいのかわからない男ふたりがショーウィンドウ前でスパナとミシンの話してるのよいよなあ、あそこで話すのはロックとか喧嘩の武勇伝じゃないんだよな……ぶっきらぼうでかわいいところのある男たちに悪い気がしない女たち、ってのは都合良いようでそうでもないような?
90年代の気分だったかっこわるさがクール、ではなくてただただかっっこわるいものをそのまんまに愛して大事にしている。登場人物に愛の告白など当然ないまま寄り添う肩(意地でも正面対置しない顔と顔)があるといいもんだろうねえ、というほわほわした夢想が形になった何か。多少は時代を踏まえて目をつむる必要性もありつつ、くーっ、せつねえなー!の後味も悪くなかったです。
『テトリス』は退屈しない工夫は色々なされているんだけど、世評…というか英語圏のcriticほど肯定的には見られなかったかなー。なんかもどかしい映画で、日にも露にも一定の仁義(どこにでもまっとうであろうとする人たちがいる)を重んじて描く志が見えるぶん「追いついてなさ」(日本語しか喋らない娘と英語しか喋らない父親で会話を成立させるのもお互いにちゃんぽんになってるかどちらかの言語に寄せるかできなかったんだろうか)が気になって仕方ない。入り口に靴がおいてある部屋で土足であがるみたいなとこもある…まあ入り口の靴は履き替え用なのかもしれんが。というのは重箱の隅なんだけど、むしろ気になったのはイエロー・フィルターならぬブルーグレー・フィルター?ともいうべきとこで、USSRはやっぱりあの色調でやらなきゃならんのか?って手癖だったり。そもそもアレクセイさんをあんな暗く描かないほうがずっと胸に染みる友情の話になったと思うんだけど。BASICいいよねーってなるとてもいいシーンが流されちゃうのもウーン?コントラクトの話にするならそっち、友情と家族の話にするならそっち、の明確さがあるほうが私の好みなのだ。評判よくなかったビーニー・バブルのとっ散らかりのほうが私は好きだナー
毎年のグラミーの結果に論争が絶えないのもこういう背景を踏まえて考えるべきことなんだよなあ、ということだったり。過去に学び続けることは大事なんよ
南部とクィア(あるいはゴシック/グロテスク)への言及にうなずき、「キング・オブ・ゴスペル・シンガーズ」ツッコミに笑い、フッテージに組み合わせる「再現」の仕方も工夫してあって面白いし、勉強になるだけでなくドキュメンタリーとしてのクオリティが非常に高いと思います。とにかくとんでもなくすごい人の話は見てるだけで元気が出る。
規格外のレジェンドのドキュメンタリーにはすごく魅力的なもの&まあまあのもの(そんなにつまらないことはあんまりない気がする、何しろレジェンドはただたどるだけでも「ほえー」となる人生の人が多い)があるけど、これは前者。少なくとも私はこういう映画にどんな視座を求めているのか(1人をたどると「イメージの歴史」が見えてくるのが好き)がわかって、そういう意味でも面白かったです。
『リトル・リチャード:アイ・アム・エヴリシング』がとてもおもしろかったので、気になっている方は早めに見ておくといいのではと思います(奇跡的に当地シネコンでかかってるけど、どう考えても人はそんな入らなさそうなので…)。
ロック史においてブラックネスの消去(彼らのリズムやメロディが簒奪され漂白された)は常々問題にされてきたことだと思うし、クィアネスは近年まで「変種」扱いだったわけで、こういうの知らないと始まらないわけですよ。おだまり!なのですよ。
リトル・リチャードのブラックネスとクィアネスがロック史においてどんな意味を持っていたのか、というポップカルチャーに触れるものなら必ず知っておきたい要素に加えて、音楽家としてパフォーマーとして何より人間として尋常じゃないエネルギーがうずまき影響を与えずにいられないその存在を宇宙に見立てそれに説得力があるドキュメンタリーになっている。スター/ダスト。
ドラァグ姿でステージに立ち性的志向をオープンにしあっけらかんとポジティブに性を歌にして「ティーンエイジャーの時代」を大爆発させる。からの突如信仰を強めて女性と結婚し引退か?と思ったら……からのまたも大爆発、からのまた……と混乱したペルソナのようでいて、一貫してもいて。まあとんでもなくすごい人の話だから元気が出るよ
勝手がわからない