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Apple TV+で『オン・ザ・ロック』見たよー。ソフィア・コッポラが割と真面目に「お金持ちで人たらしの父の娘であること」の心地よさと「さすがにこの年でお嬢さんやってるのもなー」に向き合っている気がした。昔ながらの父と今の人な夫の間でうろうろする話そのものはそんなに好みではなかったけども、興味深く見られた。金に困らない人の退屈ではあれど、ロジックがちゃんとしてる。

感じのいい感じの悪さ(ラフでコージーなスタイリングはファッションで武装しなくていい立場の2世特権的なんよね。とーちゃんはいつもパシッとしてるし、夫もスーツ着用のお仕事だ)は相変わらずなんだけど、ブリングリングあたりからなんかグッと抜けが良くなってるよなーと思う。ロボット掃除機が壁にぶつかってはうろうろするとこに心情を託してるようなとこの生真面目さはやはり好き。

「昔の男」である父親のセクシズム…というかジェンダーへの囚われはいつまでもプリンセス扱いされる心地よさと表裏で、その甘ったるさ(2人で食べるアイスクリームパフェ!)は好きなのよねー、と認めてるのは良いなと思った。そしてその感情は捨てなくてもしまっておけばいいのよ、をアイコンを使って具体に落とし込んだのもよかったと思う。誕生日映画だったので誕生日に見られたのもよかったよ。

姪っ子ちゃんは今日が誕生日なので、本日1歳の4歳児(本人はよくわかってない)

クィアシネマの本、すげーおもしろいんだが、本当に凡ミスの誤字が目立つ。校正入れてもすっぽ抜けることはそりゃあるけど、これ本当に間違いのレベルとしてうーん?となるぞ

まあ私と好みが近い人、私が普通すぎるがゆえにあんまり思い浮かばないんですが…

コヴェナント、全然悪い映画ではないんだけど(そういう話なんだ?構成は面白い)私と好みが近い人に推せるポイントもダメなポイントもそんなにない感じ…なのでなんとなくふんわりした感想になってしまうのだった。

「おとっつぁんは?」「ねえよ」「おっかさんは?」「ねえよ、おきんちゃんは?」「おっかさんだけ!」とか、楽屋落ち的なサービスシーンではあるんだけど、画面に溢れてるのはいうてもこどもは守ってやらなきゃならんのよという慈しみの感覚なんですよ。それは大人の言葉としては描いてないのよ、こどもさんたちを見るまなざしだけでわかるのよ。

立場の違いに差はなく同じ船に揺られていく川面、川抜けして冷えた子に火のそばに近づけさせて焼き芋を食わせてやる人足たち。大名様の「野点の御風流」のクソさはクソで返す。明日には売られる娘さんの髪をといてやる三味線引きの姉さんの手つきや若主人の無茶ともいえる行動(ここから話が封建社会の偽物性への告発の色を濃くしていく)、近くにある者へのかわいそうじゃないか、を守れもしないものがのさばっている仕組みこそおかしいのでは、と一言も台詞では言わない。まあその価値観ゆえ時代劇というか現代劇なんですけど。

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昨夜はU-NEXTで『血槍富士』を見て素晴らしくてびっくりしていた。初の内田吐夢。封建社会のやるせなさを描くのは時代劇の定番ではあると思うのだけど(時代小説のほとんどは実際のところリーマン小説なんよ、と教えてくれたのは父だった)こういう描き方があるのか、と目をひらかれた感。主に仁徳があれば忠がついてくることは是とされがちなところ、それ自体に「おかしくね?」と問うてしまうところの迫力に戦後の苦難を思う。何やってんだ俺らは、とわかってしまったものの悲痛。ゴリゴリにレフトな映画ですよこれ🤗
酒乱なこと以外は実に優しく立派なお武家の若主人とおつきの者が旅路で縁あった人たちとの愉快なあたたかい人情劇を繰り広げて(しかし不協和音としてそれだけではない過酷さも映り込む)ほぼ終盤で風呂敷を畳んだあとに風呂敷を中身ごとまるっと引き裂くようなことをしていて、本当に鬼気迫るものがあった。

という筋もさることながら圧倒的なのはそのビジュアルの精緻さで、語らずして語る感情描写の黄金律を見ているよう。全ての映るものがあるべきところにある安定がすごい。露骨に書き割りの富士山であることさえも意味を持ってくる(こんなに富士という「日本一の山」を馬鹿にした映画だったのか)。ラストカットも完璧だった。

料理普段あまりしない人が料理するときやっておいたほうがよいこと、私の中でのアドバイスのNo. 1は
・材料と調理道具を全部テーブルに出してから始める
・洗うものは先に全部洗う。シンクはあけておく(終わったものを入れられるスペースつくる)
・調味料は測って皿にとりわける
という料理番組スタイルにすることですね。これは私の発案ではなく。確かグッチさんの本で読んだ気がする。あとはキッチンスケールとタイマーがあると望ましいです。

応用はあとから!作業工程は忠実に!はよく言われますが、それをやる前段階として「袋をあける」とか「調味料を図る」を間に入れないだけでだいぶスムーズになります。

どうでもいい会話のすみっこだけ覚えている力は自分でも怖いときがある。大事なことは全部忘れるのに。

ふと思い出す「○○(映画)すごく良かった」「お、私も見たほうがいいのかな」「あ、ダメだと思います」「あれ、そうなの?見なくていいの?」「はい」みたいな会話からいまだに見てない映画のこと…いまだに見てないんだけど、言った人は忘れてると思う。私もどこかで似たようなことやってると思う。

エリセも10年ちょっとくらい前に見てわからなかったんだよな…今ならわかるかな…

のら犬がなんか私の嫌いなとこに全速力で突っ込んでくる(見応えはある)映画だったのでこれでmyFFF終わるわけにはいかない…

群山見てたんですがチャン・リュル監督の映画はわからなくていいとこがいいですね。面白いとはまだ思えないんだが、とにかく最後までいけてしまうし断片の情報から次々に広がって広がりっぱなしで閉じないので「そういうもの」としてうけとめられる

ナワリヌイ亡くなったの相当にショックなんだけど、かなりの率でナリヌワイとかナリワヌイとか名前を誤記されているコメントを見かけるのでそこは正確に…と思う。まあ私は英語でのドキュメンタリーで発音きくと「ナヴァルニー」に近いなと覚えてから間違わなくなっただけですが…

この題材で技術的に拙かったらどんなに志高くても私は無理なものになっていたと思うので、やはりやさしくあるには知恵と技術しかないよな…と思うのだった

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『夜明けのすべて』はファーストシーン、雨の路上、バス停にリクルートスーツの女の子がひとり座って、バスに乗り込むこともなく、後ろを向いて座り込んでいる。饒舌すぎるほど饒舌なモノローグ中、顔の表情はほぼ映らない。ただ、そこには背中の表情がある。誰も寄せ付けない。投げないの、という警察の人の言葉が胸をさす。そうしたいわけじゃない、でもそうせずにいられない心身が痛いほどに伝わっているから。もうこの時点で「ああ、信頼されてるな」と思った。映画に信頼されているのは心地いい。

モノローグからダイアローグへ、やがて周りに語りかける声へ、そしてふたたびモノローグへ。優れた脚本構成に見事な音設計と画面の設計が乗って、信頼メーター上昇が加速する。まあこれもゴースト映画だしね!(またなんでもゴーストっていう)

前にも書いたことあるけど、わたしはやさしさとは「よくみる力」に裏付けられるものだと思っていて、この映画の人たちはみんな見る/知ることに救われてるとこがいいなあと思った。この映画の言葉少なな見守りあいと私の「やさしさ」の解釈が一致した、気がする。

藤沢さんのそうしたやさしさがある種のずうずうしさによって行動に紐付けられるのも誠実だと思った。線路沿いでみかんを食べながら歩く女子だからできることがあるよなー。

あと本当に月経困難症にジエノゲスト処方してもらえるようになってよかった…2020年からだからねえ。あれを若いときから普通に処方してもらえる状態だったらどんなに楽だったか

時代の気分がケアの双方向性なんだろうね。なんとなく今年のmyFFFの良作にもこのマインドを感じている

正直あまりにも評判良すぎてちょっと意地悪な気持ちで見始めたんだけど、余裕で頭上はるかかなたを飛んでいかれた感じです

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