「おとっつぁんは?」「ねえよ」「おっかさんは?」「ねえよ、おきんちゃんは?」「おっかさんだけ!」とか、楽屋落ち的なサービスシーンではあるんだけど、画面に溢れてるのはいうてもこどもは守ってやらなきゃならんのよという慈しみの感覚なんですよ。それは大人の言葉としては描いてないのよ、こどもさんたちを見るまなざしだけでわかるのよ。
立場の違いに差はなく同じ船に揺られていく川面、川抜けして冷えた子に火のそばに近づけさせて焼き芋を食わせてやる人足たち。大名様の「野点の御風流」のクソさはクソで返す。明日には売られる娘さんの髪をといてやる三味線引きの姉さんの手つきや若主人の無茶ともいえる行動(ここから話が封建社会の偽物性への告発の色を濃くしていく)、近くにある者へのかわいそうじゃないか、を守れもしないものがのさばっている仕組みこそおかしいのでは、と一言も台詞では言わない。まあその価値観ゆえ時代劇というか現代劇なんですけど。
昨夜はU-NEXTで『血槍富士』を見て素晴らしくてびっくりしていた。初の内田吐夢。封建社会のやるせなさを描くのは時代劇の定番ではあると思うのだけど(時代小説のほとんどは実際のところリーマン小説なんよ、と教えてくれたのは父だった)こういう描き方があるのか、と目をひらかれた感。主に仁徳があれば忠がついてくることは是とされがちなところ、それ自体に「おかしくね?」と問うてしまうところの迫力に戦後の苦難を思う。何やってんだ俺らは、とわかってしまったものの悲痛。ゴリゴリにレフトな映画ですよこれ🤗
酒乱なこと以外は実に優しく立派なお武家の若主人とおつきの者が旅路で縁あった人たちとの愉快なあたたかい人情劇を繰り広げて(しかし不協和音としてそれだけではない過酷さも映り込む)ほぼ終盤で風呂敷を畳んだあとに風呂敷を中身ごとまるっと引き裂くようなことをしていて、本当に鬼気迫るものがあった。
という筋もさることながら圧倒的なのはそのビジュアルの精緻さで、語らずして語る感情描写の黄金律を見ているよう。全ての映るものがあるべきところにある安定がすごい。露骨に書き割りの富士山であることさえも意味を持ってくる(こんなに富士という「日本一の山」を馬鹿にした映画だったのか)。ラストカットも完璧だった。
『夜明けのすべて』はファーストシーン、雨の路上、バス停にリクルートスーツの女の子がひとり座って、バスに乗り込むこともなく、後ろを向いて座り込んでいる。饒舌すぎるほど饒舌なモノローグ中、顔の表情はほぼ映らない。ただ、そこには背中の表情がある。誰も寄せ付けない。投げないの、という警察の人の言葉が胸をさす。そうしたいわけじゃない、でもそうせずにいられない心身が痛いほどに伝わっているから。もうこの時点で「ああ、信頼されてるな」と思った。映画に信頼されているのは心地いい。
モノローグからダイアローグへ、やがて周りに語りかける声へ、そしてふたたびモノローグへ。優れた脚本構成に見事な音設計と画面の設計が乗って、信頼メーター上昇が加速する。まあこれもゴースト映画だしね!(またなんでもゴーストっていう)
前にも書いたことあるけど、わたしはやさしさとは「よくみる力」に裏付けられるものだと思っていて、この映画の人たちはみんな見る/知ることに救われてるとこがいいなあと思った。この映画の言葉少なな見守りあいと私の「やさしさ」の解釈が一致した、気がする。
藤沢さんのそうしたやさしさがある種のずうずうしさによって行動に紐付けられるのも誠実だと思った。線路沿いでみかんを食べながら歩く女子だからできることがあるよなー。
『夜明けのすべて』よかった。映画は光と影でできている。
メロディを美しいと思ってるのかわからないけど規則性が美しいと思うほうなのでこのへんになるかな https://www.youtube.com/watch?feature=shared&v=NPpRJoYISSQ
「ジャヌスとサムの酔っ払い道中」これNetflix映画だったんですね。と考えればこのくらいのどうでもよさでいいのかな…と思いつつ、2000年代かよという気持ちになってしまった。音楽も演出も今の時代にアリなんかねこれ。いや時代が一周しただけか?と中年っぽいことを思った。唯一今っぽかったのは「同意した?」天丼であそこは悪くなかったかな。
やっぱりナポレオンダイナマイト(好き)やスーパーパッド(好きではない)が今は作りにくい映画であることを強く感じた、のでフランスの田舎舞台でそういうのを見られるおかしさはある。でもなあ、アルコール依存はネタにすることじゃないよ…が前にきてしまうんだよ…好きな子の都合よさとかフォローなく投げっぱなして良い話っぽくしてることも気になるが、何よりこういうオフビートはド天然でやるよほどうまくないと見てられないのだよなあと。あざといロバ使い、しゃべらない弟の面白くなさには辟易。この種のコメディは誰もが撮れそうでいちばん難しいので舐めないでほしい。
と文句ばかり言っちゃうけど、別にそんな悪い映画でもないんだと思う。少なくともあの当時は男女の親友コンビでこういう映画は出てきにくかったわけでね。前には進んでいる。
『ビヨンド・ユートピア 脱北』は力作ではあるけど「いかにひどいか」の西欧への伝達、にとどまってしまってる気がした。スタッフには韓国の人たちもかなり関わってると思うんだけど……知らない人向け解説が多くてこれは「前提共有」の資料だよなあと。アメリカの映画である以上「資本主義陣営」が何をやってきたかを含めて我がこととしての切り結び方……そこまで望めずとも牧師さん密着に徹したものを見たかった気がする。
とはいえ実際の様子を密着ドキュメンタリーとして見せる点でやはりすごい。そもそもブローカーには一般ルートで売れない家族だから繋がれた、というのがもうなあ…(撮影クルーが一緒にいけないときはブローカーが撮る≒結局はこの映画が作れるような資本力…ということはソフトではあるが伝えられる範囲で伝えられていると思う)
そういう「よく撮ったな…」がきちんと撮れてるのと「いうても故郷なんだよ…」を残す余韻はよかった。過酷すぎる状況も断絶された社会ではユートピアと信じられていて、脱出する人たちも別にその地域を出たいと思っているわけではないが「身の危険からそうせざるをえなくなって」なのだ、ということをきちんと伝えてある。
でもここまで解説が必要なんだ…?ってことをどうしても思う。まあ、近い場所の話ってそうなんだよな…
勝手がわからない