でも小説書くときは台詞は削れば削るほどいいという感じになりがちなので不思議だな。
一方「Blue」では理屈っぽい&よく喋る水無瀬と滝上が登場したので書いても書いても終わらなかった。
高校の時、「ドストエフスキーはじめとするロシア文学は登場人物が喋りすぎでリアリティがない、漱石はじめとする日本文学は口数がほどよくてリアリティがある」という雑なことを言われて、
今だったらドストエフスキーと漱石だけで「ロシア文学」「日本文学」を代表させるのは無理があるとか、リアリティとは何かとか、日本文化に浸って育った人はそれは日本文化から生まれたものにリアリティを感じるだろうとか色々思うんだけど、
その時は「いや、ロシア文学の方がリアリティがある。人はドストエフスキーの登場人物くらい喋る」と言い返したくらいにはわたしはよく喋る。
小説を書くとき、
・人間は意外とものを考えていない
・人間は意外と一貫性がない
・コミュニケーションは基本的に齟齬を来している
という前提でいることに気づくのだけど、他者と交流する上でのわたしは人間を最大限に思慮深く一貫性があり話せばわかる存在として想定している。
作家としての自分と生活者(?)としての自分が全然分かれてないタイプなんだけどここだけちょっと不思議。
でもオースティン買うならパンツもベストもジャケットもブラウスもコートも揃えたくなっちゃうんだよねえ。
それならオースティンのベージュのベスト&パンツ&ジャケットで揃えてスーツだと言い張ればいい気もする。
わたしが着ると遊び人の若き伯爵の乗馬服みたいになるけど。
https://hoshibako.thebase.in/items/72880093
かっこいいな、スーツ着る仕事じゃないけど、スーツ着なきゃいけないことになったら水色とかベージュとか柄物とかのスリーピースのパンツスーツ着たい。
https://www.global-style.jp/fair/menslike/
トランス差別に反対するツイートに寄せられるリプライや引用RTを見ると、人はここまで残酷になれるのかと今更ながら唖然とする。
(ブロックするために一応通知欄を見ている)
(意外と肯定的な反応が多くてちょっと安堵している)
8/4『奇病庭園』刊行