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ロケ地聖地化そのものは別に昔からあるやろ、ヌーヴェルヴァーグゔぁーぐのパリだって図らずもそうなった路線だろう、とか思うので、特に反感はない。パリ郊外のスラムを扱う『バティモン5』のような作品がカウンターとして生まれるのも含めて、現在の都市と土地と階級の状況。

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スレまとめの中身全く読んでなかったが、一応確認したら「つ司馬遼太郎」「つ花の慶次」は即座に発動してた

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テレビ見てたら、東京では海外からのインバンド狙いで、ロケ地にしたい人へのフィルムコミッション制度が充実し始めているんですよ〜、というニュースがあった(これ昔から市街地ロケができないという日本映画の悩みだったはずでは?インバウンド対策でいきなり解消したの?とかなり気になったが…)。

パーフェクトデイズも聖地巡礼効果あります〜、からの、海外のウーミンジン監督さんもPDにあやかって桜橋でロケ!というふうに展開してた。もはやヴェンダースと新海誠が似た感じ。まあパーフェクトデイズの居酒屋や地下街の選定は、日本の外から見ると、天気の子の代々木会館チョイスと似てるんだよな…。

ウーミンジンはこの人みたい。ストーンタートルがロカルノに出品されてる。
imdb.com/name/nm1310756/?ref_=

ロックリートーマスの本は「歴史小説」と扱うのがベストっぽいね。その扱いならいいのでは?と逸らす手口が浸透してないから排外主義者がはしゃいでしまっているのかも。
blog.livedoor.jp/kinisoku/arch

『花の慶次』以来、前田慶次ミームが若者像として浸透しているのも、「史実に反した空想乙」なので、今更感ある。そもそもこの30年間の坂本龍馬イメージは「司馬遼太郎の空想乙」の世界だしな…。

大河ドラマの現代的調整要素もあるわけで、そういうのを空想乙と嘲笑しないのは、NHKがナショナルアイデンティフィケーションの装置だから透明化してる産物だろうな。

というわけで、日本在住の語学研究者が熱を上げて書いた歴史小説っぽい何か、とすれば、それはそれでありじゃん、と話が収まりそう。

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自然の権化としてモンスターを登場させると、自然/自然(としての人為)/人為と、軸が入り乱れていく作用が得られる。デル・トロもポン・ジュノそういう意味ではポストシネフィルかつ特撮要素も入れる側になる。

「身体性の発露と記録」の美学にとどまるとき、これ以上踏み越えてはいけない線引きが生まれやすく、映画美学のドキュメンタリー軸も今なお消えていないように、映画のスタイルを規定する何かとなっている。そんなことを考えた。

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imdkmドライブマイカー評をチラ見して思ったが、以前の濱口竜介は演技コードのオーバーライティングや多重性によってさまざまなる摩擦や温度差を前景化させていたが、今回の『悪は存在しない』はいわば「演技の零度」を森に詳しいやつ(自然)として置くことで、他の演技や身振りの温度差を作り上げる舵取りだ、となる。

脚本的には、文明の悪(コンサル)VS自然の対立操作になるわけだが、その捻りが足りないことが不満。「コンサルは悪だが芸能事務所のコンビもかわいそう/でも犠牲になるのはコンサルじゃなくてこの二人なんだよね〜」は捻りのつもりなんだろうけど、いやー、もっとガンガン転がしてもいいんじゃないかな。

人為/自然(身体性)の線引きと撹乱において、日本的シネフィルは初期から宿痾を抱えていて、ヒッチコック的人工空間やラングのファンタジー要素を再解釈することができてない。主として否認するにとどまっている。それらは具体的には日本シネフィルでは、特撮やSFへの侮蔑として慣習化されているわけだが、『悪は存在しない』での自然の極点は鹿になる。

だがここで、「黒沢清なら恐竜をぶちこむのがワンチャンありうる」。これが黒沢清の見世物要素。

怨嗟というものは、意図せぬかたちで不意にどろりと出てしまうものだと考えると、自分にとっても無関係ではないので、この件は他山の石とすべきだな~

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先日のSFイベントの発表、飯田の売れる小説把握の語彙が何か気持ち悪い怨嗟混じりだなと思っていたが、「あなたがたの信奉するSFやファンタジーを語る語彙は全部インテリの気取りのお遊びです。俺の整理だけが現実です」があるからだな。

売れてる小説を「再解釈すればSFガジェットある」にするのも余裕でできるものもあるが、飯田の妙な怨嗟で盲点を山ほど作っているおそれがある。

三宅唱の方が上手くいってる説を小耳に挟んだので、とっとと見ておくか〜となった

黒沢清の頃にあった、ホラーや怪人、スリラーなどのジャンル映画的見世物要素が、その下の世代からはかなり抜け落ちて、文芸趣味との結合が起き、「娯楽映画要素の換骨奪胎や変容」というのが20世紀末シネフィルの仕事が減ってきてるのではないか?とか今日は人と話していた。娯楽をめぐるヨーロッパVSアメリカの図式の衰退の影響もあるし、映画祭を狙うと娯楽VS文芸の秩序を無視できなくなるのもあるんだろう。

シネフィル的観察が研ぎ澄ませた動作や行動への精度は、日常生活的ミニマリズムと相性がよく、ミクロポリティクスのせめぎ合いを捉えることもできる。だが、もっと別の政治的取り組みも見たい。

悪は存在しないの主人公は、類型的には「アラスカの森の賢者は自然知がすごいが、なぜかトランプ支持者」を連想させるので、アメリカの頭いい作家ならあの作品の全要素に政治性モチーフを盛れるかもなあと想定する。

へー、弥助がアサシンクリード最新作の主人公に抜擢か。面白そうじゃん。この機にロックリー・トーマス『信長と弥助』でも読んでおくか…。

amazon.co.jp/dp/4778315561?ref

説明会といいzoom会議といい、会話劇が権力関係を示唆するというふうに使われるようになったのかー、とは思った。ハッピーアワーの頃にはそこまでではなかったはず。ここはポテンシャルかも。

高速道路を走る芸能事務所コンビの車中会話は二人な「これからどうするか」を語るが、タクミや町の住人は未来の語りを持たないというのも対比。タクミは過去しか示唆されないし、狩人っぽい外界認知と対応の系列にはほぼ現在しかない。

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父娘間の霊的伝授の要素があって、タクミが虫のような即時的反応行動をするのも伝授の障害とみなしたからだが、この関係が友達との会話一つない娘の描写を要請してる。その結果「父親視点で描いた『エルスール』」っぽさがあるが、そのジェンダー秩序をもっと操作した方が良かったのでは?とも思えた

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湧水うどん屋がいわば地方におけるミニシアターで外から来るコンサルがシネコンだか、実は両方ともよそ者かつ、濱口竜介にとっては片方を悪にするわけにはいかんので、全部「衰退日本」にする、というのが今作の落とし所。タイトルやコピーの悪や君はそのへんの落とし所ナラティブの導線狙い。でももっと良い解答もありうるかもなーというのが私の感想かな。
見世物要素が濱口竜介には足りないのかもしれない。

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主人公の行動原理は、狩人だとか森の人とかですらなくて、わりと虫みたいなもので、外来者が踏み込んできたから迎撃しただけにも思える。つまり実質ポストアポカリプス映画ですな。

黒沢清の役所広司や哀川翔の現代的読み替え。まあ黒沢主人公ですでに無敵の人っぽいんだが…

コンサルが企画した余所者の説明会には住人たちは辛辣だったけど、町の学童保育の管理がやばやばやろ…はその通りすぎる。そういう意味では「みんなやばい」になる映画かもなあ。隠れた衰退日本モチーフ映画になりそう。
twitter.com/hwashitani/status/

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