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imdkmドライブマイカー評をチラ見して思ったが、以前の濱口竜介は演技コードのオーバーライティングや多重性によってさまざまなる摩擦や温度差を前景化させていたが、今回の『悪は存在しない』はいわば「演技の零度」を森に詳しいやつ(自然)として置くことで、他の演技や身振りの温度差を作り上げる舵取りだ、となる。

脚本的には、文明の悪(コンサル)VS自然の対立操作になるわけだが、その捻りが足りないことが不満。「コンサルは悪だが芸能事務所のコンビもかわいそう/でも犠牲になるのはコンサルじゃなくてこの二人なんだよね〜」は捻りのつもりなんだろうけど、いやー、もっとガンガン転がしてもいいんじゃないかな。

人為/自然(身体性)の線引きと撹乱において、日本的シネフィルは初期から宿痾を抱えていて、ヒッチコック的人工空間やラングのファンタジー要素を再解釈することができてない。主として否認するにとどまっている。それらは具体的には日本シネフィルでは、特撮やSFへの侮蔑として慣習化されているわけだが、『悪は存在しない』での自然の極点は鹿になる。

だがここで、「黒沢清なら恐竜をぶちこむのがワンチャンありうる」。これが黒沢清の見世物要素。

自然の権化としてモンスターを登場させると、自然/自然(としての人為)/人為と、軸が入り乱れていく作用が得られる。デル・トロもポン・ジュノそういう意味ではポストシネフィルかつ特撮要素も入れる側になる。

「身体性の発露と記録」の美学にとどまるとき、これ以上踏み越えてはいけない線引きが生まれやすく、映画美学のドキュメンタリー軸も今なお消えていないように、映画のスタイルを規定する何かとなっている。そんなことを考えた。

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