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自分が20年前に買った新刊文庫が茶変してるのを発見して、茶変って簡単に起きるのがわかった。これが老いか。

茶変って、自分の預かり知らぬ古書で起きるとばかり思ってた

ざっくり訳した(DeepL魔法)

パヤル・ダール「ファンタジー小説とロールプレイングゲームはレイシズムの歴史を捨てる時がきた」
vitalnote.blogspot.com/2023/10

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面白い記事だった(記事は2年前)。

映画『D&D アウトローの誇り』のジョブと人種の不一致っぽさはこの種の動向からのフィードバックでもあるんだろうな。

theguardian.com/games/2020/nov

ちょっと遅れたが、この論文、Scott Ma "Fantasies of Europe, fantasies of Japan: Isekai and the narrative logic of Japanese Occidentalism" (2023)を読みおえた。

背景文脈である三宅利夫のオクシデンタリズム議論があまりに雑だったので、そっちの方にドン引きしたんだが、Maは三宅よりは作品読解をうまくやれている。ヘタリア言及は、三宅(要はイタリア在住だからこれ論じたんだろう)の先行文献依拠かな。一瞬でてくるだけ。
Ma論文は、異世界ものの00年代セッター作品としてのゼロ魔と、異世界ものミームが増えたあとでの約10年後の作品リゼロの対比と、共通する日本vs西洋の構図を見る、という構図の作り方が上手い。

「才人の超パワーの副次的な効果として、地球からハルケギニアに偶然転送された武器の使い方を即座に知ることができるのだが、その武器は、中世世界の魔法のどれよりも常に強力である。『ゼロの使い魔』を通して、才人は剣だけでなく、ロケットランチャー、戦車、AK-47、そして彼の特徴である日本のゼロ戦でも敵を倒す」(p.284)。この箇所、まさにGATEや金貨8万枚の前身だなあ、などと思った。両作とも、現代兵器を異世界に持ち込んで圧勝してドヤるやつ。

白江幸司 さんがブースト

チューリッヒ大学の人が、日本の異世界トリップ/転生ものがどんな欲望を満たしているか、オリエンタリズムとオクシデンタリズム(西方主義)にまつわる論文を出したそう。ご本人のツイートからPDFをダウンロード可能です。
主に扱っているのは『ゼロの使い魔』や『Re:ゼロから始める異世界生活』で、現代日本人が中世ヨーロッパ風世界で無双するとは……という話運びですが、『ヘタリア』とその二次創作ファンダムなんかも言及されていて大胆でした。
x.com/scotthma/status/17069062

ジェーン・ベネットのミメーシス論でも出てきたが、「かつてエンパシーは道徳感情の育成で大事だったろ」といった論脈の復活も連動しているんだろう。この論考でら、ヌスバウムがディケンズについて語るのが紹介されている。

また、いまのSNSポピュラーフェミニズム批評の「人物の行為」だけで還元する手つきが、著者の紹介するエモーション論状況と呼応してるんだろう、とも当たりがつく。

アフェクトセオリーって、作品読解においてはエモーションあげと実は識別がむずいのかも?とか。

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このサーヴェイ論文、面白かった。

モダニズム美学からだとエモーション論の路線が即反動に見えることとか、80−90年代日本脱政治モードからだとバカっぽく見えるものを価値反転させる手口なんだなと思わせる。

普通に読んだら、「アメリカの抽象表現主義がパトスと呼ばれて延々、内面性だと当時論じられたが、グリンバーグによる議論とポップとミニマリズムで揺さぶりをかけて過去にしたのに、元に戻るのか?」と反動的に見えるし、エモーション推し勢がそもそもエモーション/理性の対立を維持した上で、「理性と言語の偏重で不当に無視されたエモーションを」に持って行ってるのが微妙なんだけど、こういう議論もわりと新唯物論を押し出す時に使われがち。トラウト論で議論を切り開く時にも。

だが、ジャンマリー・シェフェールのフィクション論が、登場人物と行為を中心にすることで文学とゲームをまたがり、メディウムスペシフィシティを解除していたり、行動、感情、その道徳的側面を問う射程を提示していることを考えると、インターネット以後の暴力への感度と人称的次元の上昇に対応した議論趨勢として並行性があるというふうに考えられる。

meigaku.repo.nii.ac.jp/records

フリーレンと子どもたちの、「どっちが介護してるのかわからん関係」は、もちろんフリーレンが当初は介護主体に設定されているからこそ、それをひねるために反転契機を高めた結果、そうなったと見られる。
喪の作業とケアっぽい旅、がおおまかな柱。

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フリーレンOP見てた。
OPで勇者とフリーレンの恋歌になって、関係が強化されたので、歌詞にある「この地に芽吹いた命」すべてが亡き勇者とフリーレンの義子になる構図が確立したわけね。話の大半は、勇者の死後の喪の作業になる。

異種族間の生殖と死に別れやエイジングの差が暗黙の操作主題だな。
生命全部は物語の構成要素として図体がでかいので、媒介として義理のな息子と娘のポジションが出てきて、一緒に旅をするという処理になる。

週刊読書人は山形を担ぎ上げてピケティ解説させるんだしもはやイデオロギーは明らか。桜美林学長とサッポロビール元専務取締役を招いた対談がいつぞや載っていたし、そこらへんの後援がないと回らなくなっているんだろうな。

フーコー講義録は「新刊出るのに旧刊を増刷しない鬼畜」の可視化の方が目立つわ。

"【10月30日発売予定】
『ミシェル・フーコー講義集成2巻 刑罰の理論と制度 ――コレージュドフランス講義1971-1972年度』(ミシェル・フーコー著 筑摩書房)
【Amazon紹介文】「国家の抑圧装置としての司法はいかにして生まれたか。」" twitter.com/philo_shinkan/stat

これ見たかったんだけど、上映が一日限りという鬼スケジュールだったので無理だった。仙台まで行くのしんどい。x.com/nowsreel/status/17102604

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「山に行って食材狩り取ってくる料理人」のイメージはだいたいトリコから考えたんだけど、それでいうと、なろうスローライフな雑メシ漫画はトリコミームをひたすら薄めているだけ、とも言える

ドクターストーンとけもフレは「陽の者」すぎてなろうコンテンツ上位ポジにこれないという問題があって、その層が無職転生やゴブリンスレイヤーなら乗れる、と闇っぽいアイデンティティを投影し、ゆえにポルノ的願望充足がこの枠にこびりついて取れない局面がある。
それでいうと、トリコは中途半端なのかも。刃牙っぽさ、冨樫っぽさをもちつつ、ジャンプのメインストリームである陽の者枠を目指すので。

普通に考えると「ドクターストーンの時点でなろうハックされとるやん」になるんだが、その認定が全く共有されない状況がある。その原因はオタクファンダムのアイデンティティの型ごとエリア認定が起きているからで、オタクファンダムって「自分みたいな闇の者には~~は愛せない」実存がすぐこびりつく。

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