新しいものを表示

あ、これ翻訳出るんだね。

"昨年末からART WORKERS:Radical Practice in the Vietnam War Eraという本(ジュリア・ブライアン=ウィルソン著)の読書会を行っていたのだが(*1)、それを読書会のメンバーで翻訳することになったのだ。"
tokyoartbeat.com/articles/-/iz

これ、内容の誠実さで注目されてるけど、山場の回にもかかわらず、コマ割りのシンプルさ(全部長方形のコマだ!)の方にも驚いたぞ… shonenjumpplus.com/episode/485

作品自体は、開始時点でチェックしてた。元々pixivでやっててジャンプラルーキーレースで勝ち抜いて連載開始した人。

すでにこういうのが売られている以上、あと5年もすれば「これを読んで英語本を読み始めました」が出てきてもおかしくないな…。amazon.co.jp/dp/4142132776?ref

まあ、「何を指している単語かよくわからんが、ある言葉でもって団結」はシニフィエなきシニフィアンと呼ぶこともできるし、このタームってたぶんその程度のカジュアルな運用でいいんだろうな…。字面が妙にいかつい。

私は物心ついた時に、論壇誌やその周辺で団塊世代がとにかく「戦後民主主義的欺瞞」と言った単語を符丁のように使っていて、その言葉を発すれば何かを語ったような状態になるありさまを見て、馬鹿っぽいなあと思ったものだが、現在の「リベラル」云々の型もその復活に見える。どっちも単に「日本社会の秩序」の発露なんだろう。今では人類学的観察の対象だと思っている。

「リベラル」の中身は、狭義には、英米リベラリズム研究者・支持者、最広義には「社会問題を考えるジャーナリスト」まで含むので、要は社会問題語って良心訴求的ならみんなリベラル、というスーパーガバガバ状況がありうる。

昨日、しばらくラクーラバルトを読んで、昔は咀嚼できなかったが、よく読むと同じことを丁寧に語り直してるし、わりと親切なテキストだなとわかったんだけど、ぱっと見人を退ける威容があるのと、もはや今の学問様式に見えないため「純文学」なのでは?とか思えてしまった。まあ純文学だとあまりに語弊があるので、「20世紀における文学思想研究・思弁のスタイル」ぐらいに言うべきだが…。

左翼の代わりにリベラルを名乗る風習自体、ポスト冷戦状況における言語だと思っているが、「戦後民主主義」「戦後平和主義」が今ではよくわからなきジャーゴンに見えるのと同じような道を、リベラルという言葉も辿ると思う。

「批評」とかもポスト冷戦ぐらいの時期に「咄嗟に手に取った陣営名称」に見える面がある。

リベラルって他称でしか出てこないので、「これだからリベラルは」式の主張を見ると、「その人、リベラルを自認してるんですか?」という目で見てしまう。

なお、私は特に自称はしていない。英米的公正言説を拒絶しているラディカルの言動の方が愚かに見えるので、コミットするべきっしょの認識で対応してるつもりだが、たぶんそうは見られてないと思われる。

疲れてまるで泥のようになってる。どろとろーん。

机に本が積まれていって作業スペースがなくなるのを解決するにはどうすればいいんだろう?

積んだ本はまだ棚に入れたくない

一つは、沖縄や福岡で働いて韓国や中国との関係について考えるようになった人文系みたいにラクーラバルトを理解するといいんだろうな。
互いに戦争し合った隣国との緊張関係。ストラスブール大学にいて、アルザスロレーヌの独仏いがみあいについて考えた人。ゆえにハイデガーのナチ要素と非ナチ化の探求も着手した。右派教養を内部からいじる。

ストローブユイレがそもそもそうした政治的脱構築みたいな作家なんだろう。

スレッドを表示

ラクーラバルト論書いてみない?と好意的打診を受けたので、考えている。文化批評でラクーラバルトを使うにも、ラクー自身がストローブユイレやヘルダーリンを愛好したキャラであることをうまく御さないといかんのう。

最後は平和的流用〔peaceful appropriation〕の有効性をプッシュ。作品の道具化だと言われがちだが、政府は政治的、外交的問題に作品を使い、ソフトパワー戦略を組んで作品を道具的に使用してるんだから、穏当な使い方を模索してる活動家にだけ道具化の批判をするのはクソだ、とまとめる。

スレッドを表示
古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。