キマシタワー
「国立国会図書館は、次の約19.9万点を「国立国会図書館デジタルコレクション」に追加しました。」
https://www.ndl.go.jp/jp/news/fy2023/240328_01.html
秋山は私小説論でも知られ、それはもうおっさん丸出しの議論なんだが、この本もザ・おっさん。ただし、この一冊を読めば、プレジデントとか歴史群像といった媒体を細かく掘る手間を省ける。。
時代小説はジェンダーステレオタイプがおそらくかなりきついんだろう。それで一度、日本で廃れた。世代交代によるジェンダー感覚の変容に耐えられなかったのではないか。そういう意味で見ると、ラノベですら80−90年代秩序に適応して生まれた新ジャンルなんであって、当時の老人窟であった時代小説エリアとは全然違うんだなあと考えさせられた。まあラノベがいま老人窟になっていく過程として、ウェブ小説の中高年向け技法の蓄積が起きているんだが。
秋山駿『時代小説礼賛』(1990)は、時代小説ばかり読むジジイという、いまや生態すら把握しづらくなった界隈のクライテリアが、一冊に濃縮されてるので、コスパ良い本だった。桜や花にとって短歌の美があるように、剣は日本的精神の核であるといった頭の悪い断言や、吉川英治の武蔵を読んで木刀を振って稽古に励んだといった、現代的知性ならば書くことも躊躇われるようなくだりが山ほどある。
ジャンプバトル主義とかなろうに関する言説はすでに時代小説で展開されていたことがよくわかる。たとえば「チートばかりで失敗がない、こんなのは人生ではない!」言説、秋山が吉川英治の武蔵に向かって怒っている。あと、「こんなうまい具合に成功が張り巡らせられた作品を描くことで、吉川は円熟をものにしたつもりなのかね」とか書いてるが、無職転生褒めの構造(読者が精神的成長を遂げたような気分になれるから「これが本物」と推す)がほぼこれでは?と思えた。
この映像を撮った人、すごいな。この絵だけ見ると爆撃されたようにしか見えないし希望がまったくない状況をよく表している。この日本で3ヶ月近くも経って片付けすらできてない状況ってひどいよな
ブルーインパルスが能登半島上空を飛行し 住民たちが歓声 | NHK | 令和6年能登半島地震: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240318/k10014394621000.html
この反応を見て、なるほどと。
“最近バズってるこの手の児童書、女の子の方が確かにコミュニケーションで10代は悩むこと多い気がするが(個人的に解決策は女子中高に行くことかなと思ってた)これ男児向けはないんだねえ…男児にもホモソーシャルからの解放や女性も対等な人間であることや性教育などを教えてくれと思ったよ🥺
「女の子はしっかりしてるから〜(男子のケア含む雑務を押し付ける)」「女の子は見た目が大事〜(清潔感は必要だけどルッキズムの強化やめろコンプレックスを植え付けるな)」というのとさ、「男子は何言っても聞かないから〜(下駄を履かせる)」みたいな日本あるあるもう終わりにしたいよ”
https://twitter.com/yuming1024/status/1770271584781234683?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
このツイートからの
“このポストを見て早速小学生向けのこの辺り読んだんですけど、マジで有用だったのでみんな読んだ方がいいです。
個人的に真ん中のポプラ社が女児向けですが丁寧でおすすめ、一番右は男児もとっつきやすい感じですが、最近出てきたシリーズなのでまだ友達関係系はない。一番左は定番ですね”
https://twitter.com/omo_mom/status/1769913468617159149?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
柄谷の受けとグロイスの受けは似てるんだろうな。構図の明快さを、おおー、明快だが漏れおちるものも多そう、とわかった上で読む感じが似てる。問題は、柄谷読者はそこまで成熟しなかった、というか「柄谷道」みたいなものが作られて退屈なものになった。
どの国でも母国の著者共同体がそれを作られるんだろう。英米での仏教はマイナーだからチベットでの現れ肩と違って右翼化してないとか、アメリカではキリスト教が宗教右翼で盤石だとか、明治日本でのキリスト教は対抗性のある知性だったのと同じ原理が働く。
グロイスはそこでロシアからドイツに移っているのが、柄谷におけるイェールやジェイムソン媒介英訳に相当する。現地ロシア勢からは「カールスルーエ造形大学とかニューヨーク大に行きやがってさあ」とか思われてそう。日本のロシア学は欧米よりもロシアにマインドが近くなっているのだが、アメリカなどのロシア学への対抗からそうなってしまう。
「わたしはアルナルド・モミリアーノから何を学んできたか」(上村忠男『歴史をどう書くか』所収)では、ギンズブルグがホワイトと戦った経緯に、カリフォルニア大環境でのホワイト覇権にイラついたといった事情が語られているが、そういう背景がしょぼいけど重要なんだろうなと。
過去の保存・歴史化という局面でおもろいのは、カント的無関心を、過去の歴史をミイラとして晒す手口みたいに語ってるところ。「キャンセル(過去の文化史からの抹消)ではなく晒し首として残す」という筋立てに転用できそう。カントの判断力批判の一節を引いて、無関心性を宮殿を王侯貴族のものではなく形式的に見ることとしているんだけど、じゃあ脱政治化なのかというと、王族的なものをより徹底したかたちで殺す手口であり、フランス革命の所産なのだ、とする。こういうふうに脱政治性の政治性を考える。
モダニズムが終わって芸術と権力の時代に逆戻り、の時代にあって、モダニズム的無関心性を政治的ポテンシャルとして再読してるようなのがおもろい。こういうグロイスの面白さってロシア学の連中もあんまりピンときてなさそう。
先日はグロイス『流れのなかで』第三章「アートアクティビズムについて」を読んだ。
モダニズム以前のアートを宗教と権力を縁取る美的なデザイン、モダニズム以降をカント的無関心性に集約して、その両極がアートアクティビズムに渦巻いている、がゆえにポテンシャルもあるかもね、という論。無関心は一見して脱政治性の根拠だが、もう一度捻る。
その前の2章と共通して「ベンヤミンが愛読されたのはユーロコミュニズム論壇であって、今見ると耐用年数すぎてね?」っぽい見立てがある。ついでにトロツキーもけっこうまずいのでは?という留保がうかがえる。ユダヤ枠で一括してるのかもしれない。
あまり書き物ができてない。