過去の保存・歴史化という局面でおもろいのは、カント的無関心を、過去の歴史をミイラとして晒す手口みたいに語ってるところ。「キャンセル(過去の文化史からの抹消)ではなく晒し首として残す」という筋立てに転用できそう。カントの判断力批判の一節を引いて、無関心性を宮殿を王侯貴族のものではなく形式的に見ることとしているんだけど、じゃあ脱政治化なのかというと、王族的なものをより徹底したかたちで殺す手口であり、フランス革命の所産なのだ、とする。こういうふうに脱政治性の政治性を考える。
モダニズムが終わって芸術と権力の時代に逆戻り、の時代にあって、モダニズム的無関心性を政治的ポテンシャルとして再読してるようなのがおもろい。こういうグロイスの面白さってロシア学の連中もあんまりピンときてなさそう。
グロイスは美術館を死骸置き場にしているが、作品を高く見積もる人なら、美術館にある作品はあくまでも「仮死」なのであり、視線が作品をそのつど蘇生させるのだ、とかやりそう。でもその程度の修正を入れても骨子変わんねえから別にいいなとも思う。