柄谷の受けとグロイスの受けは似てるんだろうな。構図の明快さを、おおー、明快だが漏れおちるものも多そう、とわかった上で読む感じが似てる。問題は、柄谷読者はそこまで成熟しなかった、というか「柄谷道」みたいなものが作られて退屈なものになった。
どの国でも母国の著者共同体がそれを作られるんだろう。英米での仏教はマイナーだからチベットでの現れ肩と違って右翼化してないとか、アメリカではキリスト教が宗教右翼で盤石だとか、明治日本でのキリスト教は対抗性のある知性だったのと同じ原理が働く。
グロイスはそこでロシアからドイツに移っているのが、柄谷におけるイェールやジェイムソン媒介英訳に相当する。現地ロシア勢からは「カールスルーエ造形大学とかニューヨーク大に行きやがってさあ」とか思われてそう。日本のロシア学は欧米よりもロシアにマインドが近くなっているのだが、アメリカなどのロシア学への対抗からそうなってしまう。
「わたしはアルナルド・モミリアーノから何を学んできたか」(上村忠男『歴史をどう書くか』所収)では、ギンズブルグがホワイトと戦った経緯に、カリフォルニア大環境でのホワイト覇権にイラついたといった事情が語られているが、そういう背景がしょぼいけど重要なんだろうなと。
グロイスは美術館を死骸置き場にしているが、作品を高く見積もる人なら、美術館にある作品はあくまでも「仮死」なのであり、視線が作品をそのつど蘇生させるのだ、とかやりそう。でもその程度の修正を入れても骨子変わんねえから別にいいなとも思う。