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こんなのが出たとな。まだ下手な新人漫画家。まあポストなろうトライアルがここまで広がってるわけだな。

twitter.com/imaiokazekozos/sta

頭がぐにゃぐにゃドロリとしておる。ぐぬぬ。これはだめだ。

いろんなことが面倒くさくなって心が死んで、迷子になっている

批評とかライターの人間は、リサーチによるユニット作りを一日に何個もやっておいて蓄積していくふうになってて、それが娯楽と仕事不可分になってる。

他方、普通に働いているひとは日常的に労働として同時進行マルチタスクをたくさん抱えているわけで、そういう処世と娯楽を切り分けたくなる。そこで、切り分けが「批評とかしね」と いう 形 で(娯楽エリアを脅かされないように)発動する。日々を癒やす娯楽に労苦っぽいものが混ざるのは嫌だという拒否、拒絶が初手に組み込まれる。

ファンダムの言説秩序はこの種の「労働と排他的に切り離された娯楽」側面の増大を目指すものなので、快の最大化は目指すが、不快や齟齬を持ち込むことは入念に除去されて総体が持続しているし、作品は過剰に美化・理想化される。労働の反動で美化が推進される。しかしそういう美化こそが「労働によって規定されている」と見ることも可能だろう。

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ライフステージごとのアドバイスを考えていくと、たとえば30-40でなんら人文学学んだ形跡なし、作品を見ることとSNSの考察しか触れたことしかないし、没入や同一化の楽しみしか知らない、という人に、独習で何かを身につけることを勧めても、独習のやり方もわからないだろうから、なんらかの読書会などのサークルに入らせた方が良い、といった処方箋になりやすい。

結局、独習能力はよほどいろいろやってる人でないかぎり大半は持ってない。とすると、学生時代に何学部で何を学んだか、それと趣味がどう関連しているかしていないか、といった属性でほとんど知的な構えが規定されてしまう。

そして、「趣味」形態は、労働と余暇の分割と役割付与に大きく規定されていることが多い。痛ファンとか推し行為の危うさも、労働/余暇・娯楽が、俗/聖に仕立てられてしまうことが大筋を規定していそう。

なんかどろっとした、単なる愚痴の擬装みたいな投稿になったので消し消し

一般的に語る語彙の方のストックの一つ。

たいていは20代前半や学部生ぐらいだと大学という環境とファンダムが眼前に現前していて、それに溶け込むことに齟齬を感じていない人が多いので、そのときにアンラーニングやエスノグラフィー的距離化を言ってもあんまり意味がない、そうなると、卒業して労働して数年経過したころの25-30歳ぐらいにおいて「かつて生き生きと感じられたコミュニティや友達みんなのライフステージが変化してもはや没入感を基礎にできなくなる」といった契機が起きるので、そのタイミングでラーニングとかつて学んだことの再検討をやるべき、と切り出すのが有効とみている。

ファンダム(をはじめとするコミュニティ)やロールモデルについての選択、自覚というのは、多くの人は透明なものとみなし、意識しないので、一般的な言い方をしても響かないし、個別具体的な第三者の状況を挙げて語っても他人事か悪口として聞かれるのでこれまた意味がない。

そうなると、聞き手ごとにその当人のライフステージややりたいこと、関心などを引き出したうえで話すぐらいでやっと効果が出るのだが、そうなるとプライバシーの保持のためにも表で話す言葉ではなくなり、また、コストやエナジー消費が友好関係だけを根拠にできるような範囲を軽く越えてしまいがちになる(これをうまくビジネスにすると、無認可のヒーラーや占い師、シャーマン、コーチング技術者になる)。

こうして、マンツーマンでやるか、ふわっとした抽象的な語りをするか、の二択になるんだが、後者は効果の点では乏しいので、あんまり私はやらなくなっている。前者も、普段からやりとりしてる話題の延長でちょいちょい私見を伝授する程度に留めている(ただし、こういうのが一番ちょうどいいんだろうとは思う)。

この種のことは、私はTwitterを含めていろいろ言って気がしているが、まじで全然伝わらないか、自らずっと検討していた人から同意されるか、に反応が二極化しがちなので、「言っても無駄」という認識が私にはあるなあ。

リスクだけが増すし、敵意を持たれるか、なんか偏屈印象を持たれるだけなので、最近は表で言うことも減った。

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ファンダムに没入することと、作品に触れることを同一視してる人は増えたなあとは思う。そういう言説空間のなかでアイデンティティを確認するというふうにもはや環境が確立されている。

ファンダムってイデオロギー装置みたいなものいで、ファンダムの秩序維持のためにいろんな問いを不問にしているし、それこそアーミッシュみたいに一定の知は除去し排除してる自治集団だから、知的アクセスには限界づけられているんだが、一定の人文学トレーニングを経ていないと、そういうことには全く疑問を持たない人も多いな、と思う。

SNSにある言説の共有コミュニティはどこも大なり小なりファンダムっぽい秩序があるから(学知集団もしばしば単なるフェチや威信を中心にしていたりするが)、勉強していればその歪みに気づきそうなものなんだけど・・・。

まあ、こういうのは言っても得しないし、なんなら特定の集団から敵認定されるので、指摘するコメントは全然出ないよね。具体的対象を挙げて語ると多少は伝わりやすくなるが、即座に敵認定されてるし、リスクを考えると、抽象的一般的にしか語りようがない。

書き手意識しつつ、ライティングサークル作って内部で洞察蓄積しつつ学知摂取して議論するのがまずはいいんじゃないかな。いきなり書き手生成ってのはまあ無理なので。実際には修士か博士からのドロップ以後にうまくいった人、ぐらいしか参考例はなかったりする。

白江幸司 さんがブースト

おれが割と見てるの坂道系のおたくまわりだけど、なんか言うと「いまがグループにとって大事なときなのに水を差すな」と同調圧力があり、一方でアンチが目もあてられないような誹謗中傷やいちゃもんをつけていたり、この磁場から広いオーディエンスを前提とした「書き手」へと踏み出すのって相当気合いるよなと思う。もしくは、ファンダム内部で「書き手」と「読み手」のエコノミーがある程度成立しちゃって、書くことの公共性が等閑視されるか。

ファンダムってのは、観察して「こいつらのお宝の知はここか〜」と掌握し、さらなるメタ分析をするきっかけにするものだなあ

私は、ファンダムであろうと界隈であろうと批評家周りの党派集団にせよ、そこに染まって思考をチューニングしてる連中は知的自律性を捨ててると見て、アーミッシュみたいなもんだとしか思わないなあ。「エスノグラフィー的な記述行為を経て、とっとと脱出してね」という目で見る。だいたい、コミュニティごと腐る人間が老若男女をとわず多い。

まあどのコミュニティも権威と道祖神を祀るから、その儀礼行為ごと人は感染してしまうし、尖兵みたいな人は多いんだが…

白江幸司 さんがブースト

そうした「書き手」に必要なトレーニングにたどりつくより先に、SNSとか対象からの認知とかいろいろなよからぬ誘惑にからめとられ……みたいな悲劇も多い気がする。

私は、書き手に成り上がってやるぞージョジョー!みたいなノリでは全くなく、精神の健康と思考の継続を最重視した結果、「生産して書いた方が澱んで腐った存在にならずに済む」という答えを捻り出して、書き手っぽくなった側。思考と出力の意思はそれなりにあるが、功名心が全然ない。

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痛ファンになるのを回避する一番いいルートは、書き手になることじゃないかなあ。書き手になるためのロールモデルとトレーニングをしていると、対象化や距離化、テキスト生産といった別の媒介性の軸が入ってきて、公共性を意識せざるをえなくなる。

バークの崇高論も、反フランス革命主義者としての右派政治とセットで考えざるをえないものであるのだから、この種の耽美性は厨二病からの右翼化の揺籠担っている側面も考えられる。

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