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だが、このロマンスか非ロマンスで分かれるという、一見説得力がありそうな見立ても、考え直すと揺れてくる。なぜならロマンスだろうとなかろうと「下男・秘書・部下・執事・侍女との友好関係」なら、大半の作品で見られるからだ。
これが【同僚・上司部下・主従のカテゴリーと友達は排他的ではない】で別解を出す案。

すると、まとめの第一声の想定している「友達」なるものが学校生活や同級生を描く秩序を前提としているのではないか?という疑問に突き当たる。遡ると、少年誌のスポーツジャンルやバトルジャンルを暗黙に自明視して、それ以外を友達とみなしていないだけなのではないか?となる。
これは、【「友達」というイメージにジャンル秩序が先行している】という見解に整理される

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このまとめは幾重にも単純でやばい。

なぜなら端的に女性向け作品では、女性主人公に女性バディを組ませるものはけっこうあるからだ(『ファンタジーをほとんど知らない女子高生による異世界転移生活』では転生主人公と現地エルフのバディ、『転生少女はまず一歩からはじめたい』では転生幼児化と現地無口無骨ヒロインとのバディ、平均値では女冒険者PTもの、などなど)。

だが友達が相対的に出てこない路線もある。それを考えるとわかるのは、女性向けの二分状況は、恋愛ものなら友達が出てこない(友達は邪魔になるか裏切り要員に割り当てられる)、恋愛させないなら友達やシスターフッド路線が盛られる。このバイナリコードに気づく。

これが【男女でわりと傾向が違う。女向けでは恋愛か非恋愛かのバイナリーコード】で着陸させる案。

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このまとめはざっと読んだが、最初は「書き手の男女で差があるぞ…女性はYAや少女小説のミームをいじるし、男性はエロコンテンツ〜ラノベ〜青年誌のミームをいじる。女性向けなら友達モチーフけっこうあるやん!」とか思った。

が、もっと別の問いを立てることも可能だ。

togetter.com/li/2324512

数年ぶりに風邪をひいて悪寒が高まってる。なんとか治さないと〜。薬飲んでねむねむ。

ハンス・ハーケはアクティビズムがアート内に終わった例だとして、ジュリア・ブライアン=ウィルソンが現状整理をしてたりするから、ハーケでオッケーというのももう通用しないんじゃなあかなあ。

選挙演説中にヤジを飛ばしたら選挙妨害(には相当しない)だと言いがかりをつけられ草の根自警団に取り囲まれて「お前はテロリストだ」とか罵られ、さらには警察が寄ってきて任意という名の強制同行をさせられるのも、わりと似たようなマインドだと思う。

newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1

「日本社会を批判するなら中田孝みたいに国民保険とか全部解約しろ」(日本から出てけのバリエーション)とかもよく見る意見。

白江幸司 さんがブースト

むしろTwitter住民はオルタナティブスペースを重視していないからじゃないですかね。
Twitter使っているのにTwitter批判するんだwwみたいな嘲笑たくさんあるし、バリエーションに「日本批判するなら日本から出ていけ」があり、こういうのを解消するための手段としてオルタナティブスペースは模索されているようにおもうけど、この嘲笑をする人たちは、オルタナティブスペースには関心がない(Fediverse に関心がないし)。

「アカデミー賞はアメリカの芸能界みたいなもんだよ」という言葉を聞いて、なるほど、腐敗度が似てるんだなと納得した。

「悪役令息もの」もの、地味に増えてきてるのがわかった。書き手は女性多めだな。男性は所詮このミーム運用がまだまだか。

なんとなく読んだこれが悪役令息ものだった。mangabox.me/reader/127460/epis
ベジータのように口が悪く、気遣いしたことを言おうとしても自動で悪態になる変化球ツンデレ男主人公。

「資格教育受けてタスク回す発想ならそうは考えんやろ、変なところで躓いてるな。ああ…上司とかの体質が酷いとかそのへんが元凶か?」と推察することはわりとある

PDは、「もっとうさんくさくしろ」という逆の要求の方が面白くなりそう

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パーフェクトデイズへの怒り反応も、「うさんくさいからヤダ」が多数なわけで、真正性の希求に基づくように思われる。もっとホンモノを!と叫ぶその希求の方がやべーよというオチがある。むしろ逆に、道化とか偽物の主題をアグレッシブに追求すべきでは?という考えに至った。

シネフィルの聖性好みに疑問が一気に高まったので、「全メディウムにおいてそこの知を確保しているつもりのファンはそのメディウムにおける道祖神をつくって拝むよな〜」という達観が発達しつつある

『瞳をとじて』見てからあれこれ省察したが、このところ関心事を「聖性」というワードでまとめていたことを反省した。というのは、聖性とか精霊、亡霊という言葉はあまりに真正性の気配が濃く、見せ物やインチキの要素が極力消されてしまうからだ。映画においては聖性はそくざに「胡散臭いアンリアルな現れ」と不可分であると強調するべきなのだろう。

エリセの今作も例外ではなく、「上海の娘」要素には、90年代から立ち消えになってた上海スパイ活劇企画の残骸、しかも実際にフィルム残骸を再利用していそうだが、それだけではなくこのモチーフはエキゾチズムすれすれだ(ちょうど「アナ、三分」2012 で北斎や古楽が出てくるのと同じ程度だろう vimeo.com/102522136 )。
『ミツバチのささやき』ではフランケンシュタインとして現れた、胡散臭いアンリアル存在の系譜を焦点にして読解すると、記憶喪失の俳優も胡散臭さに飲み込まれた者として再発見できるように思う。

いいじゃんいいじゃん『瞳をとじて』。これ3本ぐらいの映画プランを凝縮してるな…

白江幸司 さんがブースト

>RP 日本の産業におけるゲームと楽器の関係でいうとチップチューンとかゲーム音楽の歴史的批評の話はもっとできそうですね。hallyさんのチップチューン本では「正当なコンピューター音楽」の歴史に対して「趣味的なコンピューター音楽」の系統としてチップチューンの歴史を描いていたけど、私はあくまでそこを対立させずに、ゲーム音楽も含めて一本のコンピューターと音楽の歴史とした方がインフラ論の話を差し込む余地が増えると思う。(という話は博論の4章あたりで講義最後のカラオケの話題とともに少し話してる)

日本がなしえた成功は、植民地主義的なのか、それとも西欧植民地主義の模倣や一体化なのか、どっちなんだろうというくだりもトークではあったが、まあどっちもがあるし、このへんで判断も揺れやすくなるんだろうな。

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先日のimdkmトークをアーカイブ購入して聞いてるけど、真ん中ぐらいから話が一気に別の局面に展開して面白かった。
覇権テクノロジーの転用・誤用だけではテクノロジーの覇権構造を変えることはできない以上、テクノロジーの植民地主義的支配に対して生産過程を含む別の対抗措置も必要になり、楽器とツールの脱植民の問いが打ち出される。

ローランドやYAMAHAすごいみたいな、日本の楽器スゴイ論はどうなのか的なことを言ってるのだが、発言では言及されていなかったが、ゲームと楽器がかつての日本の覇権という意味で並行的な関係がありそう。ローランドの808が大友克洋や鳥山明に対応するか?などなどと連想した。  

ちょうど、鳥山明訃報はいいとしても、そこから日本スゴイに転じるナショナリズムめいた言説が高まってることを危惧する投稿をいくつか見たのだが、まさに楽器やツールでも起きる議論なんだなと。

imdkm.com/bigakko_240225

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