『瞳をとじて』見てからあれこれ省察したが、このところ関心事を「聖性」というワードでまとめていたことを反省した。というのは、聖性とか精霊、亡霊という言葉はあまりに真正性の気配が濃く、見せ物やインチキの要素が極力消されてしまうからだ。映画においては聖性はそくざに「胡散臭いアンリアルな現れ」と不可分であると強調するべきなのだろう。
エリセの今作も例外ではなく、「上海の娘」要素には、90年代から立ち消えになってた上海スパイ活劇企画の残骸、しかも実際にフィルム残骸を再利用していそうだが、それだけではなくこのモチーフはエキゾチズムすれすれだ(ちょうど「アナ、三分」2012 で北斎や古楽が出てくるのと同じ程度だろう https://vimeo.com/102522136 )。
『ミツバチのささやき』ではフランケンシュタインとして現れた、胡散臭いアンリアル存在の系譜を焦点にして読解すると、記憶喪失の俳優も胡散臭さに飲み込まれた者として再発見できるように思う。